祈りの声/3

 午後間近の光が長い金髪の青年の横顔を斜めに照らす。光は朝早くの、どこか硬質的な鋭さはなりを潜め、女性の手のひらで撫でられているような柔らかさに変わっている。
 小さな子供ならば寝転がれるほどの広さと奥行きがある出窓に行儀悪くも足を上げて座り込み、木々の植わった窓の外を眺めた。
 麗らかな日差しは眠気を誘う。昨夜は早くに就寝したし、朝は日が昇りきるまで充分に眠っているのだから、眠くなるはずがないのだが、暖かな日差しは甘い誘惑の網を広げているような気がする。
 こんな日に、物思いは似合わない。暗い迷いや底の見えない悩みなど、不似合いな空だ。
 それなのに、心は裏腹に悩みの影を落としかける。
 己の状態を鑑みれば、仕方ないとも思う。溜息がつい沈みがちになるのも同様に仕方ない。悩みは尽きないのだ。何しろ、まず己のことがさっぱりわからないのだから。
 己が何を考えているのかわからない、どういうつもりであんなことをしたのか説明できない――などというわからないではない。自分自身が何者なのか、どういった人間なのか、今まで何をしていたのか、およそ普通に生きていれば不明になりようがないことが、青年にはわからなかった。
 小さな鳥が目の前を横切って大きな林檎の木にとまる。その鳥の名前は知っていた。自分の名前もわかる。しかしいつ、どうして、誰に教えてもらったのかはわからない。
 かろうじてわかっているのは、ゲオルグという名前だけ。
 それもはたして己の名なのかどうか不明という始末では、どうしようもない。青年を世話してくれている少女は、名前がないのでは呼びかけにくいというので、便宜上青年がただひとつ覚えていた「ゲオルグ」を青年の名前として扱っている。呼ばれるたびに、ボタンをひとつ掛け違えたような違和感を覚えてしまうのは、それが本当は自分の名ではないからなのか。
 溜息がまた、ひとつ漏れる。
 自分が何者かわからないというのは、意外にストレスになるものだ。せめて自分のことを知っている人間が身近にいれば、その人から今までの自分を聞くことで思い出せることもあるかもしれない。だが、どうやらこの街――というよりはこの屋敷――で青年、ゲオルグを知る者はいないらしい。この屋敷の人間が、街で騒ぎにならない程度にゲオルグを知っている者を捜してくれているらしいが、成果は思わしくないようだ。
 自分はどこの誰だろう。
 今まで何をしていたのだろう。
 どうしてこの街に来たのだろう。
 そんな疑問ばかりが尽きない。
 この屋敷にいるのは、屋敷の副主人だという少女に運び込まれたからだと少女自身から聞いた。妙齢、というにはやや幼い少女が迷わずゲオルグを自宅へと運び込んだのは、ゲオルグが少女の恩人だからだ。狼藉者が少女とその弟が乗った馬車を襲った時に助けたらしい。
 複数の男たちにひとりで立ち向かうなど危険極まりないが、勿論ゲオルグにその記憶はない。少女のほうは助けられたことに恩と、その際の事故が原因でゲオルグが記憶を失くしてしまったことを己の責任のように感じているらしく、あれこれと世話を焼いてくれていた。
 ありがたいとは思うが、どうにも居心地が悪い。
 思うに、こういった大きな屋敷で一方的にもてなされることに己は慣れていないのではないか。
 この無駄に広い客室も、装飾が過多で嫌味か悪趣味になるぎりぎりのところで踏み止まっている家具や調度の品々も、こういうのもアリなのだろうとは思える。良いと思えないのはゲオルグ自身の趣味と掛け離れているせいかもしれないし、市井のセンスに馴染んでいるからなのかもしれなかった。
 頭が薄らと痛み始めた。朝食後に飲めと医者に言われている薬は飲まずに置いてある。
 自虐をしたいわけではない。単に頭痛すらも記憶を取り戻すきっかけのひとつになりはしないかと、浅はかな考えで飲んでいない。それだけのことだ。
「……退屈だなー……」
 溜息とともに吐いた言葉は足元へ転がり落ちて消える。目的も役割も仕事もなく、漫然と過ごすことがこんなに苦痛だとは、新たな発見、というには前向きすぎるかもしれない。読書に飽きることなく勤しむことができれば良いのかもしれないが、生憎とそういった習慣はゲオルグにはないらしいこと、屋敷の蔵書に興味がわかなかったおかげで、自力で時間を潰さなければならない。
 誰か、本を読む人間が身近にいた気がする。読書が趣味なのはそう珍しいことではない。だから意外な人物の趣味だったのかもしれない。朧げにもその人物を思い出せば何か自分のことがわかるきっかけのひとつにもなったかもしれないが、「男だった気がする」というレベルでは話にならないだろう。
 頭の痛みが徐々に増してきた。堪えられないほどではないが、気にしなくて済むレベルでもない。緩く頭を振って痛みを誤魔化す。気休めにしかならなかった。
 怪我を治すことを専念しろと言われても、ベッドの上でぼんやり過ごすだけでは退屈すぎる。実際、一日で飽きてしまった。
 話相手となってくれているこの屋敷の子供たちは、今は家庭教師と勉強の真っ最中のはずだ。午後には一段落するから、それまでは何とかして暇を潰さなければならない。
 医者には運動を禁止されているが、屋敷内の散歩くらいなら大丈夫だろう。勝手に判断し、窓から離れた。
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