祈りの声/1

 雲ひとつ見当たらない空は高く、湖を渡る風は涼を含んで心地良い。
 人によっては何か良いことがありそうだと鼻歌のひとつでも歌いたくなりそうな午後に、カイルは不穏を感じた。後から思い返せば、それは虫の知らせの類だったのかもしれない。
 
 軍師のルクレティアが呼んでいるとレレイがやって来た時、カイルは人気の少なくなった食堂でサイアリーズと談笑しているところだった。
「え、オレですかー? めっずらしーなー。なんだろー?」
「また何か悪さでもしたんじゃないのかい?」
「やだなー、オレだって一応、自重くらいしますよー」
「どうだかねえ……」
 浮き名が流れたら流れたで何か言われ、流れていなければ流れていないで何か言われてしまう。気にかけてもらっているということなのだと前向きに考えることにすると、レレイについてルクレティアの私室へと向かった。
 軍議の間ではないところをみると、非公式な話なのだろう。今の所はお小言を食らうような悪さをした覚えはない。とすると、何か頼み事の類だろうか。考えながら、レレイに続いてルクレティアの部屋へ入った。
「わざわざすみません」
「いいえー。オレに用事って、珍しいですね」
「他に適任者が浮かばなかったものですから。たいした用事ではありませんよ」
 たいした用事ではないと断言した割に、内容は充分たいしたことだった。
「レインウォールの潜入調査、ですか」
「ええ。本来こういった仕事は、探偵の方々に頼むことなんでしょうけれど……生憎、彼らには別件で動いて頂いているので。女王騎士様に依頼するには向かないことなんですけどね」
 微苦笑を浮かべるルクレティアの言わんとすることは、なんとなくカイルには理解が出来る。だがそれを言うなら、いつもゲオルグも陰になり働いている。潜入はともかくとして、調査は公務として行っていたことだ。抵抗はない。
 レインウォールでは多少顔が知られているとは思うが、デリケートな仕事を無難に、過不足なく果たすには、カイルが適任だろうという結論に至ったらしい。そこまで言われると嬉しくなる。
「王子たちがニルバ島から戻ってこられたら、きっとまたすぐに戦いになるでしょう。今はまだ機が熟してはいませんが……」
「なるほどー……」
 バロウズ家はほぼ無力化しているとはいえ、財産などを没収されたわけではない。考えにくいが、次の戦の最中、密かに雇い入れた傭兵を使って背後を突いてくることもありえる。
 カイルはバロウズにそういった動きがないか、あるならどの程度の規模なのか、すぐに戦える準備をしているのか――後顧の憂いを断つためにレインウォールを偵察してこいと命じられているのだ。だが、それだけだろうか。
「それだけで構いませんよ。たくさんの兎を追いかけて、一羽も捕まえられなかった悲しいですから」
 悲しいで済む話ではない。下手をすれば味方を窮地に立たせかねない。王子を支援する者のひとりとして、それだけは避けたかった。
「他に何か不穏な動きが見えたら、お知らせ下さると嬉しいですけどね」
「了解でーす」
 食えない笑顔に笑いながら応じ、明朝にはレインウォールへ発つことを決めると、ルクレティアの部屋を出た。
 王子たちが帰ってくる頃には戻れるだろうか。そんなことを考えながら、装備を調えるために店が軒を連ねる階へと下りていった。
 それが王子やゲオルグがニルバ島へ向かった日の午後のことである。
>> next   >> go back