午後になり、やはり流行らない診療所の客足は途絶え、桜内は昼休みという名の開店休業をとることにした。とはいえ土曜の診療はどうせ午前までだ。客がいないのをいいことに、早めに休診札を出して店仕舞いする。山根は何か用事があるらしく、身支度を整えると挨拶もそこそこに引き上げてしまった。
昼飯は適当に済ませた後、食後のコーヒーだけは美味いものを飲もうと、走ればいいだけの愛車を海側へと走らせる。
馴染みのコーヒー屋はいつも通り看板を出し、駐車場には見慣れたバイクが一台、控え目にうずくまっている。
ドアを押せば、苦味すら清しいと思える芳香が満ちていた。カウンター席には桜内も常連になった店のバーテンダーが座っている。客はどうやら他に居ない。
いらっしゃいませ、と元気に迎えてくれたのは、この店の看板娘だ。
「桜内先生、もう午前の診察は終わったんですか?」
「俺の中では終わったことにした」
「まだ診療時間内っすよ、ドク」
「だから俺の中では、って言っただろう」
坂井の皮肉にしれっとした顔で答えると、隣に腰を下ろした。菜摘が豆を炒り始める。
「今日は早いじゃないか、坂井」
「たまにはこういう日もありますよ。宇野さんのとこに行ってきたんですけどね、法廷の準備だとかで忙しそうだったんで」
「今日?」
「らしいですよ」
宇野で、ふと思い出した。ここ数日、彼の金魚の糞のようにまとわりついているお喋りな男の姿を見ていない。宇野の事務所でも、ブラディ・ドールでも。
「叶はまた東京か?」
「らしいですよ。久しぶりに仕事を受けるんじゃないかって、宇野さんが言ってました」
坂井が声を落としたので、その仕事が表の稼業でないことを知る。
年に数回、裏の仕事も引き受けていると聞いた覚えがある。それが今回なのだろう。
「長引きそうって?」
「さあ、宇野さんもそこまでは言ってなかったな」
「叶さんて、本当に殺し屋さんなの?」
間に割って入った安見に、桜内と坂井は二人同時にぎょっと身を引いた。二人の顔を交互に見比べながら、少女は疑問の回答を求めている。義母の菜摘がたしなめようとしたが、桜内の答えがそれより早い。
「本当さ。あいつは殺し屋だ」
「そうなの。……なんだかあまり信じられないわ」
「現実味がない?」
「それもあるけど、」
安見は少し考え込む素振りをしてから口を開いた。
「叶さんって、優しいでしょう? だからそんなことするようには見えないの。眼が、たまに暗いときはあるけど」
桜内と坂井は顔を見合わせた。そんなこと、とはつまり、人を殺すようなこと、という意味だろう。
桜内は叶が容赦なく敵を叩きのめすところを見たことがあるし、坂井は叶が狙撃するところを間近で見た。獲物を狙い、捕らえ、とどめを刺す叶は、しなやかな肉食獣だと思う。しかしそれを口にするのは憚られた。
いつもあんな顔で、眼でいるわけではないと思い出す(主に特定の人物に対して、だ)。そういえばレナにいる時も、割合穏やかな表情をしているようだ。
――それにしても。
「……叶が優しい、ねえ……」
否定を孕んだ呟きは安見に聞きとがめられたらしい。かわいらしく小首を傾げられる。
「桜内先生はそう思わないんですか?」
「いまいち」
咥えた煙草を上下に動かしながら肩を竦める。
「坂井さんは?」
「優しい、かもしれない」
「中途半端な答えだわ」
「優しいだけじゃないから」
「坂井は叶によくからかわれてるもんなあ」
「別に、それだけが理由じゃないっすよ」
そうでなければそもそも殺し屋などにならないだろう。
坂井の言に「それは、そうかもしれないけど」と返しながら、それでも安見は不満そうだ。
「でもやっぱり、優しいと思うわ」
微笑むと、桜内の前に義母がいれたコーヒーを置いた。
ブラディ・ドールで宇野と会ったのは二十一時前だった。ちょうど沢村がピアノの前へ思案げな表情で鍵盤を叩き始めた時だ。
「法廷だったんだって?」
「まあな。これでしばらく肩の荷がおりた」
桜内の隣に腰掛けた宇野の前へジャック・ダニエルが注がれたグラスが素早く置かれる。宇野はそれへ舐めるように口をつけた。
奏でられる沢村のピアノの音を噛み締めるように、二人は目を閉じた。店内の喧騒すら、にわかに遠くなる。
音は切迫した、というより後から染み出してくるようなもの悲しさを孕み、涙を誘う調べではないのに胸を苦しくさせる。ちらりと隣をうかがえば、宇野は暗い面持ちで目を閉じていた。もしかしたら同じような気持ちになったのかもしれない。
立て続けに三曲を弾いた沢村へ、宇野が坂井に合図してソルティドッグを饗する。沢村はグラスをこちらへかざすと一息に干し、また二曲弾いてからカウンターへやってきた。宇野の隣へ腰かける。
「叶さんを最近見かけないね」
「沢村さんは俺からのソルティドッグじゃ不満でしたか?」
宇野の意地の悪い問いへ、沢村は少し困った表情で「そんなことはないよ」とグラスを坂井へ戻した。
「ただ、宇野さんと叶さんを一緒に見る機会が多いから、なんとなくね」
「いつも一緒というわけじゃありませんよ。あいつは裏の仕事を受けたようでね。今この街を離れてます」
言い訳めいた口調は珍しい。芸術家の前では弁護士の皮肉の効いた弁舌も鈍るのだろうか。
沢村は「なるほど」と頷いた。
「それで宇野さんも精彩を欠いていたわけか」
「は?」
「叶さんがいる時ほど元気がない」
「うるさいだけですよ、あの男は」
「そうかな。私は優しいと思う」
まただ。
桜内は内心で吐息した。ここにも叶を優しいと断言する人間がいる。
宇野も桜内と同じ気持ちだったらしい。眉を跳ねあげて驚きを表している。
「優しいと思うよ。そうでなければ、きっと私はあの時、叶くんに撃たれていただろうし」
桜内には知らない話だが、宇野は知っているらしい。「沢村先生を撃っていたら俺が叶に引導をくれてやったかもしれない」など、不穏な台詞を吐いている。
「ピアノを聴き終えた後、ひどく優しい表情をしている時があるよ。友だちには優しいんじゃないかな、彼は」
仕事では優しさが邪魔な時もあるかもしれないが、と言い置いて、沢村は席を立った。
後に残った二人は互いに顔を見合わせ、
「……同意できるか、ドク」
「……諸手をあげて賛成、とはいかないかな」
だよなあ、と頷きあう二人を、坂井は見ていた。