嫌な朝というものは誰にでもある。
仕事や学校が憂欝な朝、突然叩き起こされた朝、二日酔いの朝など。しかしこの日の叶にとっては、悪夢を見たということで嫌な朝だった。
薄れてしまった細部まで、夢は鮮明に撮す。普段は夢自体見ないし、見ても曖昧な色彩と輪郭でぼやけているのに、あの夢ばかりは自分でも覚えていないようなことまで見せてくれるのだ。
忘れるなという戒めだろうか。――夢なんか見なくても、決して忘れられる事実ではないというのに。
仕事の前か後、たまにぼんやりとした夢を見ることはあった。今日のように服の皺一つまでわかるような鮮明な夢は、どのような内容であろうとほとんど見ない。神経が高ぶっているということだろうか。叶は重い溜息を吐くと、乱れた前髪を掻きあげた。
ともあれ、気分が最悪なのは間違いない。カーテンの隙間から外をうかがえば、未だ夜の支配下にある空の色。枕元の時計を見れば、明け方までには間があった。
これ以上は眠れない。眠りたくない。
溜息をついて起き上がると、シャワーを浴びた。朝になればどうにでも動きようはあるが、こんな時間ではどうしようもない。
誰を巻き込もうか。思いついた相手は不良の医者しかいなかった。
叶の訪問が突然なのは今に始まったことではないが、さすがに明け方近くの訪問はかつてありえなかった。
「怪我でもしたってんならともかく……」
ぶつぶつと文句を寄越しながら、それでも中には入れてくれた。パジャマは寝乱れていたが、直す気配はない。
頭を掻きながら胡乱な目つきで叶を見すえる。
「で? 怪我もないのに何しに来た?」
「…………」
滅多な答えを口にすれば、即刻叩き出されるのだろう。不機嫌な桜内は容赦がない。
叶は密かに溜息をついた。今はうまい言い訳も浮かばない。
「……眠れなくて」
「子供か、おまえは」
呆れた言葉は予測していたものだ。まったくその通りだと自覚があるだけに、苦笑するしかない。
つまらない理由で安眠妨害をした自分を桜内は追い出すだろうと思ったが、そうはされなかった。
「昼に坂井と安見ちゃんとで話をしていたんだ。おまえが優しいって」
早口の言葉の意味を、にわかに掴みかねた。話題はまったく脈絡がないように思える。
「安見ちゃんはおまえを優しいと言い切った。坂井は条件付きみたいな感じで優しいと言った。キドニーと俺の意見ははっきり同意しかねる、という意味で一致した」
「……それで?」
「おまえが優しいというのが、俺にはよくわからん」
「そうか?」
「優しくないとも思わないが」
「友だちは特別さ」
言い切った口元には自然、微笑が浮かぶ。
この街で出会った男たちは皆、今までに知り合った男たちとはだいぶ違った。その違いは心地好いものであり、この街の居心地を良くしている原因でもある。
「大切にしたいと思ってる」
「だから優しくしてるって? 俺とキドニーはそう思わなかった」
「それだけが理由じゃないからな」
「理由? なんだ?」
「あんたなら言うか? 本人を目の前にして。知りたけりゃ、考えろよ」
「安眠妨害した男の台詞とも思えんな」
桜内は大きな欠伸をひとつすると、すたすたと寝室へ向かう。手だけで促され、叶も同じ部屋に入った。
「俺は眠い。だからおまえも、好きに眠ってろ」
投げやりに聞こえる言葉に頷き、桜内の隣に潜り込む。まだ布団の中は暖かい。間近の桜内の体も同様だった。
「……おい」
抱き込むと、さすがに不機嫌な声をあげられる。溜息とも欠伸ともつかない息を吐くと、腕の中でもぞもぞとこちらを向いた。
「逃げないから、手、離せ」
言われた通りに手を離すと、今度は桜内の胸に頭を抱えられるようにして抱きしめられた。
「ドク?」
胸に顔を押し付けられていては、顔を上げることもできない。くぐもった声で問うと、宥めるように背中を撫でられた。
「こうしてりゃ落ち着くだろ。さっさと寝ちまえ」
絶句。
まさか、この歳になって子供のように寝かしつけられるとは思わなかった。
どうしようかと思っていると、すぐに寝息が聞こえる。寝つきがいいというより、眠っている途中で叩き起こしたのだから、相当眠かったのだろう。さきほどまともに受け答えていたと思ったが、脈絡のない話題を振ってきたのは、寝惚けていたからなのだろうか。だとしたら悪いことをしたかなと珍しく殊勝に反省しながら、桜内の腰へ手を回す。
間近にある体温と鼓動は、たしかに不思議な安堵をもたらす。あんな夢を見た後ならばなおさら。
しかし、これではまったく子供だということに気付き、ひっそり自嘲する。無意識に、それだけ弱っていたということだろうか。桜内はそれを感じ取ったのだろうか。
そうしてそういうところをこの男にだけ晒す気になったのは何故か。それは自分にとって良いことなのかどうか――思いかけたが、眠りの波を前にし、考えを放棄した。