あつい。
あつい。
残暑の名残のように、気温も湿度も高い日曜だった。普通の人間にとってさえ不快な日なのだから、発熱して寝込んでいる人間にはいっそう暑苦しいことこの上ない。
咳が出ない分、体力の消耗が少ないのは何よりだが、暑さが不快であることに変わりはなかった。エアコンをつければ涼しくはなるが、身体を冷やしてしまうのは意味がない。とはいえこの暑さは何とかならないものか――寝込み始めてからずっと思考が堂々巡りをしていて、答えは出ないとわかっていながら下村はぼんやり考え続けていた。
熱は昨夜帰宅したときに測って以来、下がっていない。正確には下がるどころか上がっているのかもしれないが、計測結果を見たら余計に具合が悪くなりそうで、昼に目覚めたときには測らなかった。
風邪ではないような気がする。鼻水も出ないし、喉も痛くない。
昔、小学生だった頃には体が弱く、疲れるとすぐに熱を出した。そのときの具合とよく似ている。だから寝ていれば大丈夫のはずなのだ。問題は、大人しく寝ていられないほどあつい、というだけで。
こんなとき、いつもなら率先して看病に来るはずの坂井は、出張でN市を離れていた。朝からうざったくなる程度に電話やメールがきていたが、返信も応答もかったるいため、電源をオフにしてしまった。
出張している人間が、一体どこから自分が寝込んだという情報を掴んだのかと訝ったら、ニュースソースはトローリングをキャンセルした川中だったらしい。川中を恨むつもりは毛頭ない。子供ではないのだからそんなに心配する必要はないと、坂井に思うだけだ。
それにしても、あつい。
夕方になって日が落ちてくれれば、少しは涼しくなるだろうか。そんなことを考えながら、下村は寝返りを打って眼を閉じた。
物音で目を覚ました。
後ろ頭と額が冷たい。緩慢に瞬きを繰り返して右手を額にやる。どうやら濡れたタオルらしい。頭の下は氷枕のようだ。
「お、目が覚めたか」
視界に逆さに映った顔が、咄嗟に判断できない。
「まだ下がってないな。まあ、床なんかで寝てりゃ当たり前だが」
タオルをどかして額に手のひらを当ててくれる。その感触で、誰だったか思い出した。ただ、何故ここにいるのかはわからない。
「かのう、さん?」
「なんだ? ああ、勝手に入っちまって悪かったな。ドア、開いてたぞ」
無用心だと叶は微笑する。だが下村は昨晩たしかにドアの鍵をかけたことを覚えている。開いていたとはどういうことか。
何故ここにいるのかという問いに対し、叶は求める方向とは違う答えをくれた。
「川中から聞いたのさ。坂井がいないときに熱出すなんて天邪鬼だって笑ってたが」
「社長が?」
「坂井はおまえの世話係みたいなもんだろう」
叶の言葉に憮然と沈黙したのは、多少なりとその言を認めてしまっているからだ。周囲の人間にまでそう思われているのは心外だが。
「俺が来てみりゃおまえは床で寝てるし。心配されるわけだ」
「床、冷たくて気持ちよかったんですよ」
「そりゃわからんでもないが、毛布くらいかけて寝ろ」
部屋の中で行き倒れてるのかと思ったと笑われ、下村は少しばかり決まり悪く顎のあたりをさすった。
下村の上体を起こさせると、叶は台所に立つ。
「起きたなら丁度いい。食え」
何をと問うより早く、器とスプーンが渡される。湯気のたった卵粥が盛られていた。叶と粥が結びつかなくて見上げると、頭を撫でられる。
レトルトなのか手作りなのかはわからないが、どうやら叶が用意してくれたのは間違いないようだ。
「薬飲むにしろまた眠るにしろ、栄養はとっておけ」
子供に言い聞かせるような言葉に頷くと、スプーンで粥をすくう。幸い熱すぎることはなかったのですぐに食べられた。卵のほかに、ねぎと鶏肉の入った粥。こんなものを食べるのは子供の頃以来だ。これを作ったのが殺し屋なのだと思うと笑いを誘われる。
「これ、叶さんが作ったんですか」
「レシピをくれたのは秋山の女房だぞ……そんな変な顔するほど不味かったか?」
「や、美味しいですけど」
叶と料理。
どうにも似つかわしくない組み合わせに不思議な感じがするが、一人暮らしが長い独身男なのだから、料理の一つや二つ、できて当たり前なのかもしれない。考えてみれば下村自身も、料理がまったくできないわけではないのだ。
お椀一杯の粥を食べきると、ポカリスウェットと薬を渡される。薬をポカリで飲むと、そのまま500ミリリットルのボトルを飲み乾した。自分で思うより、喉が渇いていたらしい。
一息つくと、額に張り付いた髪ごと撫でられた。普段下村よりいくらか温かい男の手がひんやりと感じられ、心地好い。
「またずいぶん熱いな……立てるか?」
このまま床で寝かせるわけにはいかないという言葉に頷き、毛布を片手に立ち上がる。足元はぐらつき、頭の中はフワフワと落ち着かない。見ているだけでもそれがわかったのか、苦笑する叶が腕を伸ばし、体を支えてくれた。
「すいません」
「病人は横柄にふるまっていいもんだ。それより、あつくてもベッドで眠ってくれ」
神妙に頷くと、そのまま抱えられるようにしてベッドに運ばれ、横たえられる。叶は一度部屋を出ると、洗面器とタオルを持ってきた。
「服も着替えたほうがいい」
手をあげて、と言われ、素直に両手をあげた。素早くシャツごと脱がされ、暖かいタオルで身体を拭われる。
「本当はドクが山根と来るはずだったんだが、急患が入ったといって俺に押し付けてくれたってわけだ」
「言い訳に聞こえますよ」
「俺がこんなことしてるの、不思議だろう」
「そりゃあまあ」
タオルは首筋や胸、腹や瀬、脇を拭ってくれる。その心地好さにうっとりと目を閉じている間に、下半身も脱がされ、拭かれた。さすがに焦って体を起こす。
「か、叶さんっ」
「今更照れる間柄でもないだろ」
こともなげに言い切ってくれると、新しい下着やシャツを着せてくれる。手つきはまるで、いつかの山根を思い出させた。やましいところなど何もない。
仕上げのように頭を撫でられ、まったく子供扱いされていることに気が付いた。何か言いたかったが、頭皮を撫でる指はやわらかく優しい。
黙っていると叶は飽きもせず撫で続けてくれる。表情は穏やかで、ひどく優しい。
「病気のときってのは、心が弱くなる」
叶の低い声はまるで、子守唄のようだ。
「保護者が戻るまではついててやる。――眠れよ、下村」
小さく頷くと、声に誘われるように身体を包んだ眠気に、意識を委ねた。