坂井がN市に戻ってきたのは朝方、まだ早暁といっていい時間だった。
本当なら帰ってくるのは夕方のはずだったのだが、予定を切り上げて早く帰ってきたらしい。それが下村のためなのだと思うと、笑いを誘われる。勿論坂井自身はそんなことに気付いておらず、だからこそ叶や桜内のいい餌食になるのだが。
「なんで叶さんがここに?」
下村の部屋から出た廊下で開口一番に問う表情は不審も顕で、威嚇しているようだ。無論叶がそんなものに怯むはずもない。
「見舞いと看病。本当はドクが来るはずだったんだが、俺は代理だ」
「看病?」
「飯食わせて薬飲ませたくらいさ。薬はドクが処方したやつな。あとは着替えを手伝ったくらいか」
「…………」
坂井の視線に苦笑し、呆れた。
存外この男が嫉妬深いのも知っている。それも下村に限定して、だ。そういうところもからかい甲斐があるのだが。「あのな、」
「おまえじゃあるまいし、俺が病人に手出ししたりするはずないだろう」
前半は当てこすりのようなものだったが、ばつの悪そうな表情をしたのを見ると、過去に手を出した覚えがあるのだろう。だから小僧だというのだ。――わかりやすくて面白い。
この分ではまだまだ「小僧」を卒業できそうにもない。笑いを噛み殺しながら、坂井の肩を叩く。
「あんまり、人に見られて困るような場所に跡を残したりするんじゃないぞ」
それだけ言うと、ひらひらと手を振り、出て行ってしまう。
残された坂井がどんな表情をしているかなど、想像に易すぎてつまらない。それでも口の端に笑みが滲むのは抑えられなかった。