ブラディ・ドールでたまたま叶と遭い、酒を飲んでピアノを聴いて他愛のないことを喋り、そのままなんとなく連れ立って店を出、なにをするかといえば特には何もなく、やはり二人して飲むことにした。
場所は桜内の部屋。
山根はしばらく家を開けると言ったきり、三日は帰ってきていない。同居(同棲というと二人して嫌な顔をする)して数週間だが、喧嘩をした覚えはないから、気紛れだろう。
桜内は山根がそのうち戻ってくるものと思っているので、彼女のねぐらを積極的に探ろうとは思わなかった。どうせ診察時間にはきちんと出勤してくるのだから、問題はない。
叶はお喋りな男だが、初めて会った時から嫌な感じのしない男だ。ブラディ・ドールやレナでも、今日のように同じような時間に飲んでいることが多い。自然、会話は多くなった。
叶は桜内にとって良い意味で気安い男であり、二人でいて空気に居た堪れなさを感じたことはない。沈黙が少ないからかもしれない。だとすれば、それは叶のせい――おかげとも言えるかもしれないが――だった。とはいえ数少ない沈黙とて、気にならないのだが。
それが心を許していることになるのか、桜内にはわからなかった。わかろうとしなかったからだ。
それにしても、今日は微妙な沈黙が多い。不自然を感じることのない程度の沈黙が、断続している。気のせい、で片付けられる程度かもしれない。
もしかしたらいままでもこうで、それに桜内自身が気付いていなかっただけかもしれないのだ。そうだとしても、己にそれを気付かせた要因まではさすがにわからない。
いつの間にか女の話になった。男二人で飲んでいたのだから、話題としてはおかしな流れではない。山根の姿が見えないのを訝った叶の疑問から発展していった話だ。
そのうち「男も悪くないぞ」と言い出したのは叶だ。話の雲行きがおかしくなりだしたな、とグラスに氷を入れながら桜内は思った。
まだ酔っ払うにはまだ早い時間だ。酔い任せの戯言ではないだろう。とはいえ日頃から人を食ったところがある男のこと。どこまで話が本当なのか、知れたものではない。
途中まで斜めに聴いていたのだが、話がどうやら本当らしいと思える頃になって、感心したように聴きいっていた。
男とのセックスなど桜内は考えたこともなかったが、話を聴いても不思議と不快感はない。相手が叶だからだろうか。この男ならなんでもありだと思ってしまう。
女に不自由しなさそうな男だが、独特の危うい空気は男すら惹きつけてしまうのかもしれない。桜内はそんなことを思いながら七面鳥の瓶を見つめた。
「女とするのとはまた違った感じだな」
「やるのが? やられるのが?」
訊いたのは単純な好奇心。酒を飲みながらでなければするような話ではないとわかっていたから、飲みながら訊いた。
どっちもさと平然と答える叶に、内心舌を巻いた。桜内は己を貞操観念が薄いと思っていたが、どうやら叶の貞操観念はは己以上に薄い。
「どっちも経験あるのか」
「まあな。たまたまそういうことになっちまった相手が、両方好きだったもんだから。触れられるのも嫌な男だったら、俺も抱かれたりはしなかったさ」
肩をひょいと竦めてターキーを口の中へ放り込む。
健康についての話をしているように、叶は飄々としている。桜内はしばし黙り込み、腕を組んだ。
「……おまえが男に組み敷かれてる絵面なんぞ、想像できんな」
「想像するなよ。……でも、そうだな」
叶はなにか考える仕草で、指を唇に当ててグラスに視線を落とす。ふとその口元に悪童じみた笑みを見た、ような気がした。
「じゃあ、試してみるか?」
叶の言葉は、酒のせいにするにはいささか量が足りなさ過ぎた。
ちょうど飲み込みかけた酒を危うく気管に入れかけたが、根性で食道へ通した。少しばかりむせてしまったのは仕方がない。
「な、に?」
「だから。男とやるのを試してみるか? って俺は訊いたんだが?」
「……おまえと?」
「他に相手の心当りがあるなら、俺は遠慮するが」
そんな話はしていない。そんな問題ではない。
叶自身の話から、なぜこちらに水が向けられるのかわからない。たしかに根掘り葉掘り色々なことは訊いたが、それがどうしてこの男と寝る話になるのか。山根が出て行ったことで気をきかせてくれたのだろうか。
いや、それなら適当な女を紹介してくれそうなものだし、女の一人や二人が見繕えないほど甲斐性がないと思われるのも心外だ。
だったらこの発言の真意はなんだ。酔い任せの勢いとでもいうのか。いや、そんなに飲んではいない。ブラディ・ドールで叶はジン・トニックを二杯とバーボンを一杯、この部屋に河岸替えしてからはターキーを二杯。いつもなら酔う量ではない。
もしかしたら体調が良くないのではないか。叶ほどの男なら、少々体調が悪かろうと相手に気取られない振る舞いなどお手の物だろう。
なんなのだ。叶の発言も、己と同じく好奇心からくるものだとでもいうのか。
にわかに混乱しかかった頭に、無理矢理きっとそうなのだと納得させて収拾をつけると、叶の目を見た。もしかしたらからかわれているのではなかろうかと思ったのだが、存外叶の表情は真摯だったので、再び桜内は混乱した。
努めて表面に出すまいとした桜内の困惑を、叶は沈黙から察したらしい。見つめていた視線を和らげると、微笑んでくれた。笑みが苦笑に近いのは、気のせいではあるまい。
「なにも、今すぐ試そうってわけじゃない。そんな顔しなくても、俺はいきなりあんたを取って食ったりしないさ」
気が向いたときでいい。
それだけ言うと、呆然とした桜内を残して叶は帰っていってしまった。部屋に残された桜内は、叶の背中に声をかけることすらできず、閉まるドアを見送った。
からかわれたのだろうか。
いや、そんなことより、追いかけなければ。
自分の内側から湧き上がる衝動に突き動かされるがまま、桜内は脚をもつれさせながら玄関へ向かった。叶の後を追い、エレベーターを使うことすらもどかしく、勢い階段で駆け下りる。
見つけた。車に乗り込むところだ。
「か――叶!」
投げた声はほとんど息に紛れ、自分でも聞こえないほどだ。数階分を下っただけでこれかと己の体力のなさを痛感し、もう一度息を整えながら呼んだ。
「叶!」
フェラーリに乗り込みかけた体を、桜内の呼ばわる声を聞き取ったらしく、翻した。
「ドク? どうした?」
どうした。
それはこっちの台詞だと桜内は思う。しかしそれは言葉にしてはいけないような気がしたので、結果として無言で叶の前に立つに留まる。
頭は急激に回ったアルコールでうまく働かない。――後から思えば、それは言い訳にしか過ぎないと気付くのだが。
「た――試してみたくなった」
ようやく整った息。深く吸い、叶を真っ直ぐ見つめた。叶はひょいと片方の眉を上げて桜内を見つめ返してくれる。
「それは……さっきの話か?」
「ああ」
「……どういう心境の変化かは知らないが」
中途半端に開けていたドアを閉めると、ロックする。再び顧みてくれた叶の表情は、桜内が思うよりは穏やかだった。