「下村、」
飯できたぞ。
呼ぼうとして止めてしまったのは、相手が寝てしまっているのに気付いたからだ。
起こすか、否か。
寝入った相手を起こすのに躊躇がないわけではないが、この男が起きるのを待っていたら朝までかかる。さてどうするか。出来上がった夕食を前に、坂井は腕を組んだ。
激動の年末が過ぎ、年を越してしばらくした後、「片腕に慣れて部屋を見付けるまで」の約束で下村は坂井のアパートに居候していた。本当は主治医である桜内のところで厄介になった方が何かと都合は良かっただろうが、山根が戻って来るからという理由で自主的に部屋を出ることにしたらしい。それを聴いたのは桜内からで、開店前のブラディ・ドールに下村が飲みに来た時に訊いた。
「行く当てはあるのか?」
「特にはないが……いざとなれば車でも寝泊まりはできるし」
座席を倒せば寝られるだろうと下村は言うが、そんな状態で体が休まるわけがない。この男は自分が重傷を負ったという自覚がなさすぎる。
「ホテルは?」
「金がかかるだろう。そうそう使ってられるもんか」
どうせ部屋が見付かるまでだし、と肩を竦めてくれたが、黙っていなかったのは坂井ではなく川中だった。
「坂井のところに行けばいいじゃないか。古いが広い部屋だし」
何を言い出すのかとカウンタの中で内心驚いた。下村も同様だったらしく、珍しく困ったような表情を見せている。
「面倒をかけるわけには……」
「月末には義手ができる。それに慣れるまでの間だけで充分だろう。構わないよな、坂井?」
訊いていても、川中の中では既に決定事項なのだろう。坂井は苦笑ひとつで頷いた。反論はするだけ無駄なのだ。宇野などに言わせれば「川中を甘やかしている」ことになるのかもしれないが。
「自分でできることは自分ですればいい。無理な時は遠慮なく坂井を呼べばいいんだから」
川中の勢いに押されるように、下村は「はあ」とあまり気乗りしない様子で頷いた。正直、戸惑っているのだろう。何故世話を焼かれるのかわかっていないに違いない。誰が見ても危なっかしいからだよ、とは言わないでおいた。
翌日にはスーツケース二つを持った下村を桜内のマンションへ迎えに行った。
「家はすぐ見つかると思う。会社と付き合いのある不動産屋がいくつかあるし。何か条件があるなら言えよ」
「できれば新築がいいな」
後は特に何も。
助手席で大人しく車窓を眺めている下村へ、ふと疑問を口にした。
「なあ。おまえ、結局うちのフロアマネージャーの件、受けるんだろ?」
「成り行き上、仕方ないかなとは思ってる」
左腕の肘のあたりを撫で、俯いた。どうにも掴みにくい表情だ。
「やると決めたからにはしっかりやるから、安心しろよ」
「当たり前だ」
「天使がいるなら悪くないし」
横目で坂井を窺ったのは、坂井が「天使」と呼ばれるのを嫌がると知っているからだ。口には出さず、表情で嫌悪を示した坂井に下村は口の端を軽く持ち上げて笑った。
それから約三週間、下村は坂井のアパートにいる。
自分の領域に他人がいるのは、気にならなかった。刑務所の中では数人が同じ箱に入れられたし、薄い壁を隔てた向こうにも幾人もの囚人がいる。寝食は勿論、日中の労働すら同じであることも珍しくない。その時よりはマシだろうと思っていたが、一部はその通りであり、一部は違った。
下村は何でも一人でやる。掃除洗濯は勿論、坂井が仕事をしている間には料理すら挑戦したようだった。ただ片腕では野菜が思うように剥けないらしく、非常にいびつな具のシチューなどを作ってくれたものだ。
「味が良ければ問題ないだろ」
言い切った通り、ホワイトルーのシチューは坂井が作るよりは美味かった。言うと、嬉しそうに笑ったのが印象的だった。日頃は斜に構えたような皮肉っぽい笑い方しかしないから余計、記憶に残っている。
強い男だと思う。
普通身体の一部を欠損すれば一度くらいは嘆き悲しみそうなものだが、それはなかったようだ。
「感情の一部まで切り取った覚えはないんだがな」
桜内は笑って言っていた。実際、下村の感情の起伏はわかりづらい。あまり親しくない人間の部屋にいるせいかとも思ったが、桜内によれば「うちにいる時も大抵は何考えてるかわからん顔をしてたぞ」ということで、元々の性質によるらしい。
共同生活を始めて二週間を過ぎた頃には、下村は感情表現が下手であり、感情が大きく変化することも稀なのだとわかった。わかってしまえば気を遣うことも減り、同じ部屋にいながら互いに互いのペースを崩すようなことも少し減った。
とはいえ崩されるのは、坂井の方だけかもしれないが。
「下村」
寝顔ばかりはあどけないとも言える。警戒心の欠片も見当たらない。
下村は家にいる時、よく眠っている。おそらく失った身体のダメージは本人の意識とは無関係で深く、機能を回復させようと、あるいは無理を補おうとして眠るのだ。起きているより眠っていた方が回復が早いのは、動物すべてにあてはまることだろう。
下村の茶がかかった柔らかそうな髪は形の美しい額を隠し、目蓋にまでかかっている。出会った頃より少し髪が伸びたのはお互い様か。
伸ばしかけた手を止める。眠っている男の髪に触れるなど、あまり良い趣味ではない。
代わりに、寝顔を覗きこむように顔を近付けた。こうして見ると――他人のことはあまり言えないのだが――歳より幼い。
ピクリとも動かない目蓋、薄く開いただけの唇。
寝息すら聞こえない寝相は、まるで死者のよう。
(いや、違う)
寝ているだけだ。下村はただ深く眠っているだけなのだ。
良くない己の考えを打ち消すように頭を振った。
「下村っ、起きろっ! 風邪ひくぞ!」
肩を掴み、揺さぶる。触れたところはシャツ越しでも暖かく、乱れた坂井の心を落ち着かせてくれた。
「……ん……朝?」
目を擦りながらもそもそと起き上がり、小さく欠伸をする。さすがに呆れた。
「飯。おまえが食いたいっていうから作ったんだぞ」
「ああ……そうだっけ。てことは、まだ夜か」
首を回し、両腕を天井へ向けて伸ばした時には、完全に覚醒したらしい。箸を差し出してやると下村は素直に受け取り、両手を合わせてから夕食に手をつける。
「……坂井、何かあったのか?」
訊いてきた下村は神妙な表情をしている。
「? 別に何も?」
「ふぅん……それならいいけど」
「何だよ? 俺の顔に何かついてたか?」
「ついてるっていうか……変な顔してたから」
「変な顔って何だよ」
「言ったら怒るから言わない」
「何だそりゃ。怒らないから言えよ」
箸を止め、下村の顔を見つめる。そんな言われ方をして気にするなというのが無理だ。
横に座っている男はちらりとこちらへ目をくれると、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。溜息をつくと、目を逸らす。
「……泣きそうな顔、してたから」
言ったから怒るなよと言う下村の言葉は坂井の耳を上滑りした。
「……そうか」
胸がひりつかされる。己でも自覚はあった。思い出してしまったから。だから下村の言葉はそれほど意外ではない。
親しかった男たちの死に顔など、何度も見たくはない。奥歯を噛み締め、動揺を堪える。
「悪かった」
不意に下村が頭を下げた。いちいちこの男の行動は突拍子がない。
「なんだよ」
「苦しそうな顔、してたから」
「…………」
どうしてこう、この男は。
他人に関心などなさそうな顔をしておいて、人の心の一番やわらかい部分を突いてくるのか。
厭ではない。
が、困る。
「……あんまり似合わないこと言うな」
苦笑は、下村の目に苦笑として映っただろうか。
優しくしなくていい。
弱った自分に染みてしまうから。
坂井の祈りが通じたわけではないだろうが、下村はそれ以上何も言わなかった。ただ困ったような表情で薄く微笑んでくれただけだった。