眠りを妨げられ、覚醒した。自分を叩き起こしてくれた男の顔を見、下村は表情に出さず驚いた。
泣き出すのではないか。
坂井はそんな表情で自分を見下ろしていたのだ。動揺を誤魔化すために体を伸ばし、首を回す。床で寝ていて固まった筋肉が少しほぐれた。
暖房がついているとはいえ、堅い床で何も掛けずに眠るのは誉められた話ではない。何度か坂井に怒られたが、下村には寒くないのだから仕方ない。眠くなった場所で眠るのだ。
テーブルにはしっかり食事が並べられていた。下村のリクエスト通り、肉団子と煮物。
期限付きの家主、坂井はきっと本人が自覚しているよりマメな男だった。下村なら店屋物で済ませるところ、この男は料理をしてくれる。
「自分で作った方が美味いだろ」
というのが坂井の主張だが、マメだというのが下村の感想だ。
「……坂井、何かあったのか?」
「? 別に何も?」
「ふぅん……それならいいけど」
「何だよ? 俺の顔に何かついてたか?」
「ついてるっていうか……変な顔してたから」
「変な顔って何だよ」
「言ったら怒るから言わない」
「何だそりゃ。怒らないから言えよ」
横顔に坂井の視線を感じる。ちらりと目をやると、訊かねば引かぬという顔をしている。言い出したら聞かない性格は川中譲りだろうか。下村は小さく溜息を吐いた。まっすぐな視線を避けるように目を逸らす。
「泣きそうな顔、してたから。……言ったから、怒るなよ」
言葉の後半を、坂井は聞いていないようだった。呆けたような、虚を突かれた表情をしている。「そうか」とぽつりと漏らされた声は虚ろで、どこか苦しげだ。
だから、思わず頭を下げてしまった。
「……悪かった」
不意を突かれ、坂井は目を見開いただろうか。
「なんだよ」
「苦しそうな顔、してたから」
頭を下げたまま、殴られても仕方がないと考えていた。自分の発言が坂井を傷付けてしまったなら、それくらいは止むを得ない。
しかし坂井は下村を殴るどころか、泣きそうな顔で微笑んでくれたのだった。
見る者の心を余計に締めつけてしまうような表情。他の人間には見られたくないだろうに、そんな表情をさせてしまったのは自分のせいか。
傷付けてしまっただろうか。
思いやりのない発言だったかと悔い、そんな表情を見せてくれるなと念じながら曖昧に微笑んだ。
川中の提案による坂井との共同生活は、そろそろ一月が過ぎようとしている。
その間に気付いたのは、この男が実は滅法警戒心が強いということ。店ならカウンターが常連や他の客達と一線を画す。その程度の壁を、部屋でも感じた。世話になった翌日の昼からだ。
いきなり自分の領域に他人が入り込むのだ。獣の本能として、相手を警戒するのは仕方あるまい。
しかし坂井のそれは、獣の警戒とは異なる種類のもののようだった。まして片腕を失くした男相手にどう接して良いか、などという問題でもない。『親しくなる』ことを意識的に避けているように、下村は感じた。その癖、下村が何か無茶をしようとすると――先日桜内のマンションへ置いたままの車を取りに行こうとした――黙って手を貸してくれるのだ。車の時は、助手席でサポートしてくれただけだが。
警戒心の強さはある意味、野良猫と同じかもしれない。無論川中や、他のブラディ・ドールの常連はそれなりに別格なのだろうけれど。
下村にしてみれば、己に向けられる坂井の警戒心をさほど気にしているわけではない。同じ空間にいて、気にならなければそれで良い。警戒されるなら触れなければ良い。それだけの話だ。
ただ、時にいたたまれなくなる。
夕食時に見せられたあの表情。女だったなら抱擁の一つくらいはしていたかもしれない。少しばかりとはいえ、親しくなった人間の傷や痛みを堪える様は見たくない。痛みは引き受けてやれないから、苦しくなる。そして、優しくしてやりたくなってしまう。
坂井が弱い人間であるはずがないことも承知している。しかしどんな男にも弱いところがあると知っている。それを他人に見せるか見せないかの差だけだろう。
吐き出したければそうすれば良い。心の奥に溜った澱も少しは紛れように。それは決して弱さではないのに。
坂井が望むなら、どのようにでも望むがままに癒すのに。坂井がまだ下村を警戒している内は、下村が掃溜になるのは無理な話。
「……らしくないな……」
枕に横顔を押し付け、呟きを吸い込ませる。
誰かをこんなに気にするなど、かつてあっただろうか。まりこと暮らしていた一年半ですら、あったかどうか記憶にない。だから「一緒に暮らしているから」という理由はあてはまらないかもしれない。
いやそれ以上に、付き合いの浅い人間(まして相手は男だ)を相手に「望むままに」などと考えた自分に驚きだ。いつの間にそんな殊勝なことを考える人間になったのか。世話になっているから、などという理由だけでは済まされないだろう。
(もしかしたら、)
惚れたかもしれない。
(……なんてね)
寝返りをうち、毛布を抱きしめる。
整理のつかない感情に名前を付けるのは、今でなくて良い。今はまだ「同居しているから気になるだけ」にしておこう。
当座は、坂井の警戒心をゆっくりほぐしていくことができれば。いずれできあがる義手に慣れれば下村は一人暮らしをするつもりだが、今は一つ屋根の下にいるのだし、春からはどうせ職場も同じだ。坂井と動くことも多くなるだろう。そういう時には相手を知っていたほうが呼吸が測りやすい。
焦る必要はない。
呟いて、かたく目を閉じた。眠りの淵はもう、すぐそこまできていた。