幕が下りる。
撃たれた場所を正確に悟り、まず感じたのがそれだ。次に身体を動かしたのは意志。
「君……」
何か言おうとした沖田を振り切り、狙撃手を追う。今ここで、少なくともあの狙撃手だけは始末しなければならない。殺し屋としての自尊心もあったし、沖田をここでこれ以上危険な目に遭わせたくはない。
奴の姿は見失ってはいない。地の利は叶にあった。男の行く手を待ち伏せるような場所で狙いを定める。その間にも暖かな血は身体から流れ出る。むせると血を吐いた。
よくもまあ、うまい具合にうまい角度に弾が入ってくれたものだ。敵の腕が格段良かったわけではない。沖田をかばった角度が悪かった。決して相手を卑小評価しているのではない。ただの事実だ。
狙いをつける腕が小刻みに震える。視界はまだしっかりしているが、やがてぼやけていくだろう。
「……クソッタレが」
吐き捨てる言葉に、常の力はない。
見えた。
位置を測り、呼吸を止める。三秒。再び静寂に包まれた時には、叶はそこに居なかった。
自分が去った後に聞こえた車の音。宇野か川中だろう。沖田を無事に保護できただろうか。怪我一つなかっただろうか。
「……こんなもんかな」
予感は、なかった。
今まで自分が多くの人間に与えた幕。彼等の多くは、その日に終止符が打たれると予想できただろうか? それが自分に回ってきただけだ。叶はそう理解していた。人間は、いつか死ぬものだから。
路地を作る壁を背にずるずると座り込む。口から溢れる血を拭おうとは思わなかった。どうせ体内には戻らない。
不意に、覚えのある排気音を聞いた。と思った時には爆音は目の前に停まる。
「叶!」
赤い跳ね馬から飛び出てきたのは川中だった。叶がどこぞで乗り捨てた愛車を拾ってくれたらしい。
「よぉ」
まだ口の端を持ち上げる気力はあった。口から血を流しながらの笑みは、川中の目にどう映っただろう。
無言で叶を支えて立たせ、フェラーリの助手席へ押し込む。シートベルトをかけると、運転席へ取って返した。
「二十分。二十分だ、叶」
それまで持ちこたえろよと川中らしくもなく切羽詰まった命令が寄越される。
無駄なことだ。自分の身体は自分が一番わかる。例え桜内の神業的な治療処置をもってしても、五分の命が十分になるだけだろう。そんな無様な終幕は望んでいない。
道はどうやら沖田の診療所へ向かっているらしい。そこに皆いるのか。
「沖田は……?」
「キドニーが連れて行った、と思う。俺があそこに着いたのは、シトロエンのランプを見送った後だ」
「そうか」
「相手はそんなに凄腕だったのか」
川中の声は固かった。叶はふと唇を歪める。またいくらか血が流れた。
「沖田が撃たれる所だったからさ」
シートは汚れてしまっているに違いない。掃除はえらく難儀するはずだ。叶は頭の片隅で、そんなどうでもいいことを思った。
川中は叶の一言で理解してくれたらしい。市街を抜け、レナを脇目に、フェラーリはいっそう速度を増した。海沿いの道はカーブが多い。にも関わらず、川中は減速をしない。
「このままじゃあ、病院に着く前に葬儀屋を呼んだ方が早くないか」
カーブで揺られるたび、口からは血が零れる。身体が少しずつ冷えていくのが、他人事のようにわかった。
目蓋が重い。しかし意識はまだ保っていなければならない。ほんの少し、あともう少しだけ、自分には時間が残されている。伝えねばならないことをこの男と宇野に知らせなければならない。
叶の言葉に川中は応えなかった。右へ、左へ、まるでレーサーのようなハンドルとペダルさばきを繰り返している。神経のすべてを運転へ回しているに違いなかった。
「寝るなよ、叶。まだ早い」
焦った声は、この男らしくない。叶は目蓋を閉ざしたまま、口だけ開いた。
「余計な体力を消費したくないんだ。喋ってれば生きてるさ」
「目を開けて、口を閉じればいいだろう」
「無理な相談だな」
肩を竦めたかったが、うまくできなかった。
「もうすぐ、着く。その間だ」
一方的に告げると、川中はすぐに押し黙った。
カーブで叶の体は左右にふられる。対向車がいたなら、ガードレールか山側へ突き刺さっていただろう。幸い、対向車には一台も出くわさなかった。この場合の幸いは「対向車にとって」だなと叶は内心で苦笑した。
沖田を連れて行ったのが宇野なら、診療所に宇野はいる。沖田も桜内も山根もいる。下村という坂井と同じ歳くらいの男もいるはずだ。
誰か足りない。誰だ。……考えるまでもない。
「……、かい、は?」
声は川中には届かなかった。ブレーキに掻き消されたのだ。
車が止まったと認識した次には、川中に担がれていた。声がやけにうるさい。すぐに診察台に横たえられ、桜内にシャツを裂かれた。山根が丁寧に傷口あたりをアルコール綿で拭う。彼らならわかるはずだ。この傷が救からないものだということに。
だから叶は喋った。軽口と、必要なことを伝えねばならなかった。仕事に失敗して死ぬなら、せめてそこまではしておかねばならない。
いっそう苦しくなり、顔を歪ませる。
モルヒネを打つという沖田の言葉を一度退けた。だが、沖田は引かない。
「私には、君にモルヒネを打つ権利があると思う。私にだけはね」
これは私が打とうとしたモルヒネだよ。
「先生の分は?」
「いらんよ」
沖田の声は穏やかであり、聞き分けのない子供に言い聞かせるような優しさがあった。気を遣われているわけではないその響き。
悪くない。
「打って貰うかな」
叶から痛みを取り去る分、沖田がそれを耐えるというなら、それはそれで良い。どの道、最後の最後に訪れる沈黙まで堪えられるかどうか、叶自身にもわからなないから。
それでも喋ろうとしてしまうのは、もはや性分だろう。
薄く目を開き、己を囲む人間を見た。沖田、宇野、川中。桜内や山根、下村は視界の外にいる。
やはり、足りない。
川中に「レーサーになれるぜ」と揶揄をやった後、一呼吸置いた。
「俺のフェラーリは、坂井にやってくれ。あいつが、一番大事に乗ってくれそうだ」
必ず大切にしてくれる。予感ではない。確信だ。
坂井は藤木のジッポもスカイラインも大切にしている。特にジッポへの思い入れは生半可ではない。肌身離さず持っているようだし、手入れもマメにしている。藤木の存在が、いまだに坂井の中で大きいという証明のようなものだ。そんな男だから、大切な物を預けていいような気になる。
「わかった。おまえの金魚は、俺が引き受けよう」
硬い表情。しかし川中も約束を違える男ではない。叶が愛してやまない彼女達はきっと、二人の元で大事にされるだろう。
「この街で、俺の芝居の幕が降ろせて、よかったよ」
口からまた血が溢れた。体中の血が、すべて口から流れてしまっているような錯覚。しかしそれも、じきに止まる。
腕に、小さな痛みが走った。沖田がモルヒネを打ったのだろう。
抗い難い眠りの波がすぐに訪れた。
気になることがないでもない。だがそれらを考える暇を与えないほどの波に溺れる。
暗闇に飲まれる間際、賭けを最後まで見届けられなかったことに気が付いた。