坂井が沖田の診療所に着いた時、いつになく重い空気がそこを取り巻いていた。この診療所が明るい空気に包まれていることはまずないが、かといってここまで重苦しいものに取り巻かれているのも珍しい。
プレハブに見合いの安っぽい戸は容易く開き、坂井を迎え入れる。空気はいよいよ重さを増し、確かな質量をもって坂井を押し潰そうとしているかのようだ。
見知った人間の顔はどれもこれも不景気で、気を晴らしてくれそうな人間はいそうにない。待ち合いと思しき場所で、川中と宇野と下村が表情を無くしたままグラスを傾けている。放心、とは少し違う。彼らなりに男の弔いをしているのだろうか。視界に入ったが、声はかけなかった。向こうもまた、かけてこようとはしなかった。
奥、桜内の診察室に通された。室内は薄暗く、闇が巣食っている。その闇の中心、診察台の上に、人が横たわっていた。途端、足取りが重くなる。
自分の脚はこんなに不自由だっただろうか。たかだか数メートルもない所まで歩くのに、ひどく時間がかかった。
「……叶、さん」
たまらず漏らされた呼びかけに答えはない。沈黙のもたらすものに耐えられないと言ったのは彼ではなかったか。しかしこの静謐を破る者はいない。
薄暗がりにぼんやり浮かぶ殺し屋の顔。穏やかだとはっきりわかる。断末の苦しみはなかったのだ。
目を閉じただけの叶の顔は、見覚えがある。夜中にふと目を覚ました時、こんな顔で眠っていたものだ。それと違うのは、生の気配がまったくないことだけ。色を失くした叶の顔は、それでも呼べば何か答えてくれそうで。頬に触れた指先の冷えに裏切られ、坂井は目を伏せた。
こうして亡骸を前にしても、にわかには信じられない。だが叶は息をしていない。鼓動もない。死んだのだ。
昨日まで当たり前のようにあった声も体温も、永久に去ってしまった。触れても嘆いても、戻ってはこない。
二度目。
大切な人の死は、二度目だ。
胸に、ぽかりと何かが空いたような錯覚。一度目より大きいのか小さいのか――それすらもわからない。もしかしたら同じくらいの空洞かもしれなかった。覗いても空洞の中は暗闇ばかりでよく見えず、自分ではよくわからない。
呼吸がうまくできず、意識的に吸っては吐いた。指先から血の気は引き、かじかんでいる。決して真冬だからというだけではない。
不思議と涙が零れないのは、あの時と違い、看取れなかったからだろうか。心は指先同様、冷えて何かが溢れそうなのに。それでも涙は出ない。
骸に触れたくても触れられず、叶であったものの傍らに立ち尽くして見下ろした。
「坂井」
躊躇いがちな声に振り返る。川中が手招いていた。そういえば診療所に入ってから誰とも言葉を交わしていない――どころか、顔もろくに合わせていないことに気付いた。
動かぬ叶に目礼をして部屋を出る。胸の奥が焼けそうなほど、何かに駆られていた。
衝動を押し留め、診察室のソファに腰掛けた川中の傍らに立つ。その隣に、グラスを抱えるように宇野が座っていた。彼も川中同様、叶の死を看取ったのだろうか。どのように受け止めているのだろうか。
ただの友人と言い切るには、あまりに彼に近過ぎた男の死。どのような想いが去来しているのかなど坂井の窺い知れる所ではないが、無性に気にかかるのは、宇野が叶の特別だったと知っているから。
宇野への視線を断ち切り、グラスへ口を付けた川中へ戻す。彼のシャツの胸あたりは、べっとりと血に塗れていた。既に乾いたようだが、思わず目を瞠るほどには汚れている。
「社長――怪我は?」
「俺は何もしてない。瀕死のあいつを見付けて、ここに連れてきただけだ」
声は硬く、乾いている。友人の死を、この男はどのように折り合いをつけるのだろう。藤木とは違う、でも友達の死。忘れなければいいと、きっとまたそう言うのだろう。覚えていてやるのだと。
川中はポケットを探るとその手を坂井に差し出した。
「何ですか?」
「金魚は俺が預かることになった。フェラーリはお前に、と言っていた」
一番大事にしてくれるだろうから。
「……叶さん、が?」
喉の奥はひりつき、突っかかりそうになる言葉をなんとか吐き出した。震えてしまったのは仕方がない。川中の向かいに座った下村の視線を感じたが、彼を振り返ることはしなかった。彼も別に話をしようとは思っていないだろう。
「ああ」
「俺に?」
「ああ」
掌に落とされた鍵。無言のまま見つめ、握りしめた。
叶の真っ赤な跳ね馬は、彼のマンションの駐車場にうずくまっていた。
朝になるのを待って葬儀を済ませ、坂井と川中と宇野はその間、沖に出ていた。戻ってきてからフェラーリと宇野のシトロエンで叶のマンションにやってきた。川中が金魚を引き取り、宇野が東京の女の連絡先を確認し、それぞれ言葉少なに解散した。
二人を見送った後でもう一度叶の部屋へ戻り、洗面所の脇、バスルームの手前にあるバスケットチェストから、Tシャツとスウェットを取り出す。さすがにあの二人の前で引き取る気にはならなかった。それを抱え、駐車場へ降りたのである。
他に残った物は、宇野や川中、あるいは東京から女が来て引き取りに来るかもしれない。その時に明らかに叶のものではない衣類が置いてあるのはまずいだろう。余計な追究もされたくはなかった。
キィを差し込み、ドライブシートに身を委ねる。車内の掃除が必要なほど荒れてはいない。あれで案外几帳面な男だったのだ。まるで新車か買いたての中古車のように、私物はない。いつか死ぬ時のためではないだろうが、用意が良すぎるように思う。残されたのは薄ら染みついた細巻き葉巻の香りだけだなどと、あまりにやりきれない。たかだか十二時間前かそこらだ。その時叶は生きていた。
浅く吸った息を吐いてキィを回し、ぐ、と拳を握り締め、深く息を吸って止めた。染み出しそうな涙はそれで堪えられた。「堪えるな」と囁いてくれた人は、もういない。それなら堪えるしかないのだ。何より、自分ばかり悲しんでいるわけにはいかない。もっと悲しんでいる人間は他にいるのだ。強くならなければ。いつまでも叶に言われた「小僧」でいるわけにはいかない。
充分に暖機し、走らせる。フェラーリから見上げる空は寒々しさを膨らませるように晴れて、胸の空洞をいっそう確かなものにさせる。
かつて憧れ、己でも乗り回してみたいと思った高級車。こんな形で乗りたかったわけではない。
山を走る気にもならず、まっすぐ自宅へ戻る。十分もせずに着いた。
車外は首を竦めるほどには寒かったが、どうせ車から部屋までたいした距離ではないのでコートやジャケットを羽織る気にもならない。シャツとスウェットを抱え、部屋に戻る。
天気が良い。洗濯するにはお誂え向きだろう。気分も変わるかもしれない。今日も店は営業するのだ。いつまでもこんな重いものを引きずったままシェイカーを振ってはいけないだろう。
篭にためておいた洗濯物のポケットを確かめていく。以前ジーンズのポケットにティッシュを突っ込んだまま洗濯して悲惨な目に遭って以来、ポケットに余計な物が入っていないか改めるのが癖になっていた。
案の定ジーンズのポケットから小銭が、またスウェットパンツからは紙片が発見された。買物での釣り銭だろう小銭はともかく、スウェットに入った紙片に見覚えはない。新品を叶のマンションにそのまま置いていたのだから、値札以外の物が入っているのはおかしい。まして坂井には紙を入れた記憶はない。洗濯機に服を突っ込んで回し始めてから、折り畳まれた紙片を開く。
途端、動けなくなった。
紙片に刻まれたのは、見慣れない手書きの文字。しかしそれ以上に、記されていること、紙片が坂井へ語りかけることがにわかに理解できない。
手紙の主は、坂井でないならただ一人しか考えられない。このスウェットを、例えば宇野あたりが使ったのなら彼が書いたとも思い込めただろう。筆跡が宇野のものと明らかに異なろうとも、だ。
紙片が折れる乾いた音はまるで悲鳴だったが、構わず握りこむ。
たかだか数行の文字の羅列。しかし心震わされるには充分すぎる内容。
膝が崩れ、その場に座り込む。
「……叶、さ……」
誰も聞いていない呟きは、紙きれだけが吸い込んだ。
自分が泣いているとは思いたくなかった。