先日までの暑さが嘘のように、肌寒い日が数日続いていた。
長い梅雨も明けず、べたつくような暑さは不快としか言いようがない。それでも大学は普通に授業をしているし、この暑さが嫌だという理由で休んでいてはどれだけの授業で単位を落としてしまうかわからない。だが前期試験中ということもあり、僕の憂鬱はいつもの倍増しだった。
「アリス、そんな顔しても湿度は下がらんで?」
「わかってます……江神さんは何でそんな涼しい顔してるんですか」
「昔の人がええこと言うてるやろ。心頭滅却すれば、て」
「……僕には無理です……」
とてもそんな悟りの境地のような感覚を得られそうにはない。寒いだけならいっそ北海道のほうが諦めがつきそうに思う。
ただ寒いか、暑いかであればいいのに。
「レポートは終わりそうか?」
「ええまあ……山は越してますから、もうちょっとかかるかな?」
「提出期日は明後日やったか」
「ええ。……あっ、もうこんな時間やったんや!」
腕時計を見れば、日付が変わろうとしていた。五限の授業を終えて食事をした後から、江神さんの部屋に押しかけてレポートを書いていたから、僕にしてみればすごい集中力だ。押しかけられた江神さんにしてみれば、いい迷惑かもしれないが。
ちらりと江神さんを窺えば、いつもの優しい微笑を浮かべてくれている。だがこの微笑はクセモノだと、僕は思っている。
機嫌がいいのか悪いのかわかりにくいし、何を考えているのかさっぱりわからない。大丈夫と思って踏み込めばひらりとかわされるし、駄目かと思って距離をとれば平然としている。それでもある一定の安全ラインは、最近になってようやくわかってきたのだが。
さて、この笑顔は何の笑顔だろう。
「この時間やと風呂は明日のがええやろな……寝よか、アリス」
「はい」
客用のタオルケットを受け取り、座布団を枕代わりに寝転がる。いつぞやは熱帯夜だったが、今日はまるで真逆だ。タオルケット一枚で、朝方は冷えないだろうか。
「アリス、朝は冷えるからこっちおいで」
「…………」
そんなことを無用心に言わないで欲しいと思うのは、僕のわがままだろうか。江神さんが僕の気持ちなど知るはずもないことなどわかっているが、それでも思わずにいられない。
「……アリス?」
しばしの沈黙を何と受け取ったのかはわからないが、江神さんは首を傾げて僕を真っ直ぐ見つめる。僕は不自然にならないように、そっと視線を外した。
「いえ――大丈夫です。暑がりなんで、ちょうどええくらいやと思います」
「そう、か?」
「……?」
返しに、いつもの江神さんらしくなさを感じて、外したはずの視線をまた江神さんに戻した。この表情はわかる。
「……なんでそんな困った顔してはるんです?」
「困ったていうか……うん、困ってるんやろな……」
「?」
他人事みたいに言う言葉の真意までは汲み取れず、今度は僕が首を傾げる番だった。
「何か問題でも?」
「問題……といえば問題やな。実はな、アリス」
「はい」
いつにない真剣な表情に、自然と僕も構えて真剣にならざるをえなかった。
江神さんの言葉は予想外で、僕は十年は忘れられないと思う。
「朝方、俺が寒いんや。せやから一緒に寝たってくれんか?」