「お疲れ様でした」
レジで客の応対をしている同僚に声を掛けると、蓉司は暖かなコンビニから寒風吹きすさぶ冬の夜へと足を踏み出した。首にかけただけのマフラーを、思わずぐるぐると巻き付ける。
空を見上げたが、残念ながら厚い雲に覆われており、星空は望めそうにもない。冬は空気が澄んでいるから星がよく見えると教えてくれたのは、父だったか姉だったか。以来、冬になれば思い出した時には空を見上げるようにしている。星座など、ほとんど知らないけれど。
「崎山」
反射的に声がしたほうに顔を向ける。
よく見知った顔が、蓉司を見つめていた。
「……城沼。なんで、ここに」
「バイト終わるの、待ってた」
「待ってたって……ここで? 中に入ってればよかったのに」
頷いた哲雄を、呆気にとられて見つめる。この寒空の下、どれほど待っていたのだろう。
「たいした用じゃねぇから」
「とにかく、うちに来いよ。体冷やしたままだと風邪引くだろ」
冷蔵庫はほとんどその用途を全うしていない状態だが、インスタントコーヒーなら買ったばかりのものがある。何もないよりはマシだろうと、哲雄を伴いマンションへ帰った。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
律儀に「お邪魔します」と言ってからリビングへとついてきた哲雄を振り返る。コートはとりあえずダイニングで使っている椅子の背にかけた。哲雄も蓉司に倣うように、着ていたダッフルコートを椅子にかける。
「……別に」
「別に、じゃないだろ。何かあったのか?」
「いや……」
「何だよ」
それでは何だと言うのだろう。何もなくて、わざわざ夜遅くに訪ねて来るなどということはありえないだろうに。
蓉司はわずかに苛立ちを覚えつつ、哲雄の眼を見た。
「はっきり、言えばいいだろ」
「…………」
ふ、と息を吐いた哲雄が窓の外へ視線を遣る。外に何かあるのかと思ったが、哲雄はすぐに視線を蓉司へ戻した。
差し出されたのはビニル袋に入ったタッパーだ。
「……これ、母さんが持って行けって」
「…………わざわざ、これのために?」
受け取ったタッパーはずしりと重い。一種類だけでなく、色々な惣菜が詰められているようだ。
休日に蓉司の家で勉強をする時や蓉司が体調不良で学校を休んだ時に、哲雄が何度か持って来てくれたことはある。だが、こんな風にただ惣菜だけを持って来たことは、一度もなかった。
他にも何かあるのではないかと勘繰ってしまうのは、そのせいだろうか。
「……まさか、勉強を見に来てくれたわけじゃない、よな?」
「ああ」
「じゃ、なんで……」
心の底からわからない。蓉司には到底思い付くことができない理由があるのだろう。
それを知りたいと思う。
自分が誰かに対してそんな踏み込んだことを思うようになるなど、半年前の自分には想像もできなかった。
人は、ひとりでは生きていけない。いや、ただ生きるだけならできるのかもしれないが、社会という多くの他人の中で生活するなら、ひとりで生きていくことは困難だ。他者と繋がり、時に離れて、社会と自分との関係を構築する。
だから、良い変化のはずだ。姉も蓉司に友人ができたことを蓉司以上に喜んでいる。
「なあ、城沼。……なんで来たのか、言えよ」
口調はともすると哀願が滲んだ。
みっともない。
それでも聞きたかった。寒空の下、蓉司がバイトを終わるのを待っていた、その理由を。
「…………」
しばらく無言だった。数分の間だ。長くは感じなかった。
根負けしたように、哲雄が大きく息を吐き、ついでのようにぼそりと言う。
「夜中、雪降るって」
「雪?」
「天気予報で言ってた」
年も明けぬうちから雪が降るなど、都心では珍しい。道理で凍えるほど寒かったわけだ。
だが、雪が降るからどうしたと言うのだろう。
「……見たいと思って。一緒に」
「……明日でもよかったんじゃないのか」
「積もるくらい降るかわかんねーし。それに、初雪だから」
真顔で答えられると、意図がわかりにくい。ただでさえ普段から何を考えているのかわからないのに。
さて――どう答えたものか。
「嫌、だったか?」
今度はわかる。不安が滲んでいる。
「そんなことはないけど」
「じゃ、何」
「……珍しいと、思って。そういう理由で城沼が行動すること、あるんだなって思った。いいとか悪いとかじゃなく」
「そうか」
哲雄がホッとしたように肩の力を抜いたのがわかる。
――雪か。
口の中で呟く。
前に雪が降ったのはいつだろう。自分はどこでそれを見ただろう。深く考えなくても思い出せた。病院のベッドだ。あまり良い思い出ではないが、哲雄は蓉司にそんなことを思い出させたかったわけではないだろう。むしろその逆のはずだ。
哲雄にしてみれば純粋に蓉司と初雪を見たかっただけなのかもしれないが、一緒に見たいと思ってくれたことが嬉しいと思った。
「……いつ降るかわからないなら、起きてないとな」
「寝てもいい。起こすから」
「おまえだけ起きさせておくわけにもいかないだろ。起きておくよ」
そういうと、蓉司は窓の外へ目をやった。
できれば少し遅くに降って欲しい。あまり遅すぎても困るが、終電がなくなった頃なら、起きていられるからだ。
心が浮き立つような気持ちで、蓉司は暖かなコーヒーをふたり分、作った。