そんなことが言いたかったわけではない。
下村は俯くと唇を噛んだ。
言葉を継ごうにも、相手はとうに店を出た後だ。幸い、店終いのあれこれは終わらせてしまった後だから、着替えを済ませれば下村も帰宅できる。
――なんでこうなるんだろう。
下村は無口なほうではない。必要な時にも不必要な時にも喋ることはある。
「おまえは言葉を惜しんでる」
そう評してくれたのは、不良医師だったか。着替えの手を止めずに思い返した。
決して惜しんでいるつもりはない。だから単に、言葉が足りない――ことがある、ということだろう(さすがにいつも足りないとは思いたくない)。
では先程は、どんな言葉が足りなかったのか。
「わかったら苦労しねえって……」
ぼそりと呟くと、自棄気味に薄手のジャケットを着る。
今日、下村は坂井の車で出勤した。だから帰りは徒歩になる。別に嫌ではないが、立ち仕事の後に二十分以上歩くのは少々億劫だ。
だからといって、それだけの理由で店に寝泊まりすれば、また小言を喰らうに決まっている。
どうしてああやってあいつは性格が細かいんだと、自分の大雑把な一面を棚に上げて溜息を吐く。
店を出ると鍵を掛け、ゆっくりした足取りで歩き出す。
月明かりで空は明るい。浮いているのは、まるで下村の溜息を形にしたような濃紺の綿雲だった。