朝、登校した時には秋晴れと言っていい爽快な青空が広がっていた。
今、下校しようと昇降口から出た時には空は厚い雲に覆われ、今にも天が泣き出そうとしている。
蓉司は薄暗い空をかすかに眉を顰めて見上げた。鞄を持っていないほうの手で、胸のあたりのベストを掴む。
「崎山」
声を掛けられ、反射的に顔をそちらへ向ける。哲雄が、気遣わしげな表情で蓉司を見ていた。
「具合、悪いのか」
「え……?」
思いがけない言葉に、どういう意味かと首を傾げる。どちらかというと今日の体調はそんなには悪くなかったのだ。
「胸、掴んでるから」
「あ……いや、これは」
慌てて手を胸から退かすが、皮膚の内側は疼痛が続いている。今更誤魔化すのもおかしいと、哲雄と視線を合わせた。
「事故の時の傷が……気圧が変わると、疼くっていうか」
「痛むのか」
「……ちょっと」
すると哲雄は何かを思案し、しばらくすると蓉司の手を引いた。引きずられるように歩かれ、脚をもつれさせながら校門まで歩く。
だがいつまでもそうして歩くわけにはいかない。蓉司はともかく、哲雄はただでさえ人目を引く男なのだ。今も下校中の他の生徒がちらちらと視線を投げかけたり、何事かひそひそと囁き合っているのが視界の端に映っている。妙なことで注目されるのは勘弁して欲しい。
「ちょっ……城沼、離せよ」
小声で、だが哲雄には聞こえるように言うが、まるで耳に届いていないそぶりで哲雄は足早に駅までの道を歩く。
下校時間ともなれば校門付近や駅までの道程は駒波学園の生徒で溢れている。その中を縫うように足早に駅を目指す哲雄と蓉司は、やはり目立つ。普段は目立つことを極力避けている蓉司にしてみれば、他人の好奇の視線は耐え難いものがある。
「城沼……!」
必死の制止に、哲雄が歩く速度を緩めてくれた。ほっとしながら、ようやく隣に並んで非難の目を向ける。
「いきなり、なんなんだよ。……手、もういいだろ」
「早く帰って休んだほうがいいだろ」
「? なんで?」
「痛むんだろ、傷」
哲雄の言葉に目を大きく開いて瞬きを繰り返した。蓉司にはよくわからない理屈の行動をとることが多い哲雄だが、やっぱりこの時もよくわからなかった。
「痛むっていうか……疼く、って感じかな。でも、気圧が変わる時は仕方ないし」
「天気変わる時はいつも痛むのか」
「いつもじゃない。いきなり変わる時とか……台風の時とかかな」
事故に遭って以来の付き合いとも言える痛みだ。入院中や退院してから数年は頻繁にじくじくとした痛みに悩まされたが、今では普段痛むことのほうが少ない。今日のように疼くことのほうが珍しかった。
電車を待つまでの間に心配は要らないということを哲雄に伝えたつもりだが、それでも気になるのか、今日の勉強は蓉司の家で行うことに変更されてしまった。
蓉司の身体のこととなると、哲雄は途端に姉のように心配症になる。気遣ってくれるのはありがたいが、そんなに心配されることはない。子供ではないのだから。
「そんなに気、遣わなくていいのに」
最寄駅から自宅までの道程を、今度はゆっくりと歩く哲雄の横に並んで歩きながら蓉司が呟く。哲雄がちらりと視線を寄越した。
「心配なんだよ」
「だから、そんなに心配しなくても……」
「すぐ無理するだろ」
「してない」
「してる。一昨日も保健室行っただろ」
即答され、言葉に詰まる。たしかに哲雄の言う通りだった。だが、そんなに心配されるほどのことではないとも蓉司は思っている。
マンションの階段を上りながら、反論を試みた。
「あれは……ちょっと胃の調子がおかしくて、胃薬をもらいに行っただけだし」
「その後も顔色悪かっただろ。保健室で休めば良かったのに、そうしなかった」
「授業に出ないと、学校に来た意味がない。四月に結構休んだし、試験で点数クリアできても出席日数が足りなかったらまた留年するかもしれない」
「だからって、無理していいわけじゃねぇよ。おまえの姉貴にも心配かけるだろ」
「…………」
それを言われると弱い。両親を一度になくして以来ふたりきりで暮らしてきた姉には、何かと面倒をかけてきた。できれば余計な心配はかけたくないといつも思っている。
「早く帰ったほうがいい」
それであんなに急いだのかと思うと体調の心配をしているのと矛盾があるような気がするが、それほど早く蓉司を家に帰して休ませたかったということだろうか。
真摯な表情や視線は、本当に蓉司の体を心配しているのだと明確に訴えている。本当に、この男は自分より年下なのだろうか。今までに何度も浮かんだ疑問がまた浮かぶ。
そんなに頼りなく見られているのだろうか。
同時に、学校ではほとんど他人を気にしない哲雄が自分を気遣ってくれることにむず痒さを感じる。
蓉司は表情を緩め、「じゃあ、」と条件を提示しながら部屋の鍵を開ける。
「うちで、ゆっくりしていけよ」
「……?」
「その……いてくれたほうが、紛れる……気がするし」
「痛みが?」
「いや……むしろ、落ち着くっていうか、安心する」
「…………おまえさ」
そこで何故か哲雄は深い溜息を吐き、わずかに視線を逸らした。
何かまずいことでも言っただろうか。それとも、部屋に上がるのに靴を脱ぐためだけだったのか。
「城沼……?」
「……まあ、いいけど」
微苦笑を唇の端に浮かべ、気を取り直したように「お邪魔します」と断りを入れ、蓉司に続いて部屋に上がり込んだ。