まったくこの頃の自分ときたら、一体どうしたというのか。
東條巽は夕暮れ時、彼が経営する陰間茶屋『華菱』ご自慢の中庭でひとりぽつねんと物思いに耽っていた。
この頃、というより、年季が明けた朱璃を再び『華菱』へ迎えてから、と言ったほうが正確だと自分でわかっている。
「近頃の巽は丸くなったな」
などと旧友である一ノ瀬聖は評する。それが正しい表現かどうかはこの際、重要ではない。
陰間茶屋の楼主など、絶対的君主として君臨してしかるべきである。それがいささかも緩みでもしたら、たちまち陰間たちの気の緩みへ繋がり、ひいては『華菱』の評判を落としかねない。つまり、示しが付かないのだ。
遊郭街でも格上の扱いの楼閣であることを自他共に認めている以上、沽券に関わる。また、一度緩んだ箍を締め直すのは骨だ。
理解しているし、巽としてはそれまで同様、何ら変わりない『華菱』の運営を続けているつもりであるのに、ふとした時に旧友の言葉、あるいは気掛かりが浮上する。
巽が甘くなったかと陰間たちに問えば、そんなことはないと即答が返ってくるだろう。
仕置きにしても指導にしても、手心を加えているつもりはまったくない。それは周囲もわかっていることだが、では何故、聖をして「丸くなった」と言わしめるのか。
朱璃が出戻って以来ということなら、主たる要因は朱璃しかありえまい。
「……困りましたね……」
誰にともなく呟いた言葉は桜の幹を滑り落ちる。
原因がわかっているのなら、後は対応をどうするかだけだ。だがその対応に関して、巽の頭には珍しく良案が浮かばない。
まさか朱璃と会わずにおくわけにもいくまい。陰間ではなくなった朱璃は巽の伴侶として、現在は離れで起居を共にしている。会わずにいれば確かに以前の巽に戻るかもしれぬが、今の巽に朱璃なしの生活は考えられない。七年前から徐々にとはいえ、朱璃に惹かれていた自分に気付き、華菱に引き留めたあの日から、朱璃の居ない日々など思いも寄らぬ。
そもそも朱璃にこれからの人生を共に歩んでくれと懇願しておいて、今更離れるなど言語道断である。
(では、どうするか……)
溜息をひとつ吐いたところで、母屋から自分を呼ばわる声があることに気付いた。耳慣れたその声を聞き違えるはずもない。勿論、朱璃のものである。
朱璃は中庭に巽の姿を認めると、下駄を引っかけて傍へやって来る。自分の許へ真っ直ぐ小走りにやって来てくれるのを密かに嬉しく思いながら、おくびにも表情には出さない。
「どうしたのです、朱璃。何かありましたか」
「いえ……見世の開く準備が整って時間が空いたんです。巽さん、お茶でも飲みませんか?」
かつてお職を張っていた朱璃は混血児で、日本人らしからぬ美貌と長い金髪にたおやかな肢体、穏やかで優しく、気配り上手の性情は多くの客の心を掴んだ。
年季が明けたために見世の表に立つことはないが、裏で陰間たちの相談相手や見世の者たちの手伝い、巽の貿易の仕事の手伝いなど、まめまめしく働いている。
もっとも、見世の表に出ないのではなく、巽が出さないようにしているのだが、朱璃自身がそれに気付いているかどうかは不明だ。
「巽さん? どうしたんですか?」
朱璃の言葉に、はっと我に返る。
「いえ……なんでもありませんよ」
「そうですか? もしかして、お体の具合が良くないとか……」
朱璃は何でも巽第一に考える。それはお職になる前から変わらぬが、今はそれが面映ゆい。
顔が緩みそうになるのを引き締めながら、首を振った。
「大丈夫です。それより、午前中にいらしたお客様に頂いたお菓子がありますから、それを出しましょう」
微笑んで言えば、朱璃は微笑み返してくれる。やはり笑っているほうが良い。美貌がいっそう輝くようで眩しく、いつまでも眺めていたいと思う。
そうして、その輝きをいつまでも損なわずに慈しみたいとも。
(……慈しみ……)
唐突に、聖に言われた言葉が理解できた気がした。
「巽さん?」
不思議そうに首を傾げる朱璃へ、笑みを深めて見せる。
「さ、行きましょう。お茶はおまえが淹れてくれるのでしょう?」
「は、はい」
何故か頬を染めて俯く朱璃を促し、母屋へ戻る。その理由は巽にはわからなかった。
朱璃が淹れる茶はいつだって他の者が淹れるものより格別美味いと思えるが、その日の茶はいっそう美味く感じられた。それを幸せだと思えることこそ幸せなのだと噛み締めつつ、傍らの珠を生涯護ろうと決意を新たにしたのだった。