11/桜散る春の日

 今年の春はそれまでに比べ、来るのが少しだけ早い気がする。
 『華菱』ご自慢の中庭に植えられた桜を見上げ、朱璃はどこか浮かれた気持ちになっていた。
 春は、好き。
 大好きな人に、居場所をもらった季節だから。
 巽が手を差し延べてくれた八年前のあの時から、自分の想いは揺らいでいない。一途な想いが報われたのは、つい最近のこと。陰間でいた間は巽に辛く当たられる時もあったが、今ではそんな時のことを補うかのように、優しくしてくれる。
 きっと誰も、あんな巽の顔や声は見たことも、聞いたこともないだろう。
「朱璃君、ここにいたのか」
 背後からかけられた声に慌てて振り向けば、昨年まで華菱の主代行だった一之瀬聖がにこやかに中庭へ下りて来たところだった。
「一之瀬さん。お久しぶりですね。どうか、したんですか?」
 昨年、朱璃が華菱に出戻り、年が明けてしばらくしてから、聖は元の職場へと復帰した。復帰が決まった時の晴れ晴れとした笑顔は朱璃の記憶に残っている。陰間として世話になったこともあったし、出戻ってからも何かと気遣かってくれた。年末年始にふらりと挨拶に寄ってくれはしたが、座布団が温まる間がないほどの、ほんの短い時間でしかなかった。
 何かまた仕事で問題が起きただろうか。そんなことを考えながら長身の美丈夫を見上げると「いや、」と首を振る。
「何、仕事が思ったより早く片付いたから寄ったのだ。だが巽は留守だそうだな」
「ええ、でもそろそろ帰って来る頃だと思いますけど……」
「うむ。その前にな。鬼の居ぬ間に命の洗濯だ」
「巽さんは、鬼なんかじゃありませんよ」
 学生時代からの友人という気安さからか、聖は時に巽をこき下ろすようなことを言う。軽口なのだとわかってはいるが、朱璃としては愛しい人のこととなれば黙っていることなどできない。
 聖もそれは承知しているのだろう、悪びれた風もなく涼しげに「朱璃君、それは惚れた欲目というものだ」と返してくれる。多分に自覚してはいるものの「そう、でしょうか……?」と首を傾げる。
 聖はにこりと笑んだ。
「本当に巽のことを鬼と思っている奴も、いるだろうな。だがそういった輩とは、あいつも距離を置くだろう」
「ええ」
「ああ見えて、存外に繊細だからな、巽は」
 聖の言葉に朱璃は目を見開いた。
 自分以外にそう感じた人間がいたことに驚きを隠せなかったのだ。さすがは長年の友人、と思うところか。
(……でも……)
 自分だけがわかっていることではないと思うと、落胆してしまう。自分が出会うより前から巽と聖の付き合いはあったとはいえ、誰より巽のことを見てきたとひそかに自負していたせいもあるかもしれない。
 いずれにせよ、年季明けの直前を思い返せば贅沢な悩みだと内省する。
「朱璃君?」
 沈黙した朱璃を怪訝に思ったのか、聖が顔を覗き込んでくる。はっと我に返った。
「あ、す……すみません」
「大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。桜が……花びらが散るのが綺麗で、少しぼーっとしてしまって……」
 苦しい言い訳か。思ったが、聖は目尻を和らげたまま頷き、傍の桜を見上げる。
「たしかに、美しいな。そろそろ見納めだが……皆で花見でもできればよかったか」
「そういえば……去年もしましたね」
 朱璃が華菱に戻ってきてから初めての春、庭の桜を散るに任せるのは惜しいと言い出したのは誰だったか。その後に、庭の桜だけでなく、どうせならもっと桜の咲いているところへ見に行けばいいと言ったのが聖だったことは覚えている。
 聖の計らいで華菱の陰間たちは花町の中ならば自由に出歩けるようになっていた。とはいえ見世を上げて花見をしていては商売にならないと渋る巽に対し、「見世が開くまで&お得意様を呼んで料金をせしめる」ことを蒼が提案し、二日後には公園で大人数による花見が行われたわけだが、誰もが笑顔だったので大成功だったと言って良い。
 あの巽ですら、見世ではあまり見せない穏やかな表情で応対していたほどだ。
 あの時、見世にいた陰間のうち数名は目出度くも落籍となり、あるいは年季明けとなり、今は華菱にはいない。代わりにあの時にはいなかった者が新たに華菱の陰間となり変わらぬ日々を送っている。
「ああいう楽しみがあれば、働く者たちの良い気分転換になるのだろうな」
「その後で仕事にならないのは、困りますけどね」
 聞き慣れた声に慌てて振り返れば、やや難しい顔をした巽がすぐ傍に立っていた。
「巽さん、おかえりなさい」
「巽! もう帰ってきたのか」
「ただいま、朱璃。聖、私が自分の見世に帰ってきて何か不都合でもありますか?」
 聖に対しては若干声を低くして問う。見世の者なら震え上がったかもしれないが、生憎と聖はそんなに繊細な神経は持ち合わせてはいなかった。
「そんなことは言ってないぞ。ただ、巽が帰ってくるとゆっくり朱璃君と話をすることができないというだけで」
「どういう意味ですか」
「言わねばわからん、ということはないだろう?」
 屈託のない笑顔とともに言われれば、巽は「やれやれ」と溜息を吐く。
「まったく……まあ、いいでしょう。それより、こんな所にいつまでも居ては寒くはないですか。桐島様に舶来のお菓子を頂きましたから、お茶でも飲みながら食べましょう」
「私の分もあるのだろうな」
「どうして当然のように言うのです」
 朱璃に向けて言っていたのに、割って入ってきた聖に対し、眉間に皺を刻む。
 以前の朱璃なら巽のそんな表情を目の当たりにすれば、おどおどとした挙動のまま取りなしの言葉を入れたかもしれない。が、この二人にはこういったやり取りが普通なのだと、今では理解している。
 一応、そんなに簡単に聖の思い通りにはさせないということを言動で示しているのだろう。それが聖に対して有効であるかどうかはともかくとして。
「私は客だぞ」
「君は見世の客ではないでしょう。むしろ手土産を持ってくる側では……まあいいです。たくさん頂きましたからね」
 また溜息を吐き出すと、ふたりを促して母屋へと戻る。陽はすっかり傾き、ほとんど姿を隠してしまっていた。春とはいえ、庭を吹き抜ける風はまだ涼気を孕んで身体を冷やす。
 きっと、冷えた身体をお茶で温めるといい、という意味なのだろうなと思いながら、朱璃は愛しい人の背を見つめた。
 本当は、優しい人だから。
 直接的には気遣いの言葉を掛けたりはしないけれど、遠回しな言葉の内に隠されたそれに気付けば、巽という人物に惹かれるはずだ。
 知っているのが自分だけではないことは少々残念ではあるけれど、秘密を共有するような楽しみがある。先程の落胆も、そう思えば落胆にはならない。
 愛しい人と、その友人の背を交互に眺め、朱璃は誰にともなく花のように微笑んだ。
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