その頃、ゴンドールの賢明なる執政、デネソール公の長男であるボロミアは、後年よりずっと血気盛んな少年だった。その頃というのは、ボロミア少年が十七になった夏の頃である。
「兄上! 少々離れすぎではありませんか?」
栗毛の馬に乗った弟、ファラミアがボロミアの背へ声を投げる。近頃ようやく変声期に入った弟の声は幾分掠れ気味ではあるが、歳幼いものの特徴である高さは多少残っていた。
「まだ大丈夫だ!」
「ですが、供も連れず――」
「大事無い! 兄の剣の腕を疑うか?!」
そういうわけではないと返しながら、ファラミアは嫌な予感を感じていた。確信も証拠もなく、説明もできない類の嫌な予感だ。説明ができないことにはボロミアは納得しないだろうし、兄一人を残して今ここで馬首を巡らし、帰るわけにもいかない。兄の勇猛さや、歳に似合わぬ剣の腕など、一緒に学んでいるファラミアはよく知っていた。ボロミアがそんな自分に自信を持たないはずがない。
ファラミアが不安を口にし、一人で帰還することを躊躇ったのはそれだけではない。父が陽性な明るさと兵士たちに愛され、大将の器の片鱗を見せているボロミアを、自分以上に可愛がっていることを知っている。一人で帰ればその父に何を言われるかわからず、それを憂いた、ということも事実だった。
勉強や頭を使うことにおいてはファラミアのほうが兄に勝ったが、東の国境付近がまた騒がしくなりそうな気配のある今、デネソールは勉学より腕力を好もしく思っているらしかった。
それに加え、ボロミアが亡き母の面差しや髪の色を継いでいるのも、父の寵愛の理由であろう。これは家に残されている母の肖像を見た時にファラミアが感じたことである。
だからといってひねたり拗ねたりもせずに育っているのは、執政の家の者であるという誇りと、兄や父への愛情であり、父にまったく愛されていないわけではないと信じているからであった。
前を行くボロミアの腰には、大人が振るうのと同じ長剣が佩いてある。彼の権能では、既に大人の一般兵を負かし、充分渡り合えるほどである。足りないとすれば実践の経験だろうが、こればかりはどうしようもない。一朝一夕に身につけられるものではないからだ。
ともあれ二人は昼過ぎにゴンドールを出、始めは疾駆していたが、今は歩かせて野を行っている。
「兄上、少し休みましょう。馬も疲れているでしょうし」
「……そうだな。休もうか」
ようやくファラミアの言葉を容れ、右手に見えた木立のほうへと馬を進める。干した果物と携帯していた水を馬に与えると、兄弟も携帯していた食料を少し食べた。馬は充分二人に慣れてはいたが、念のため木に繋いでおいた。
木の幹を背に腰を下ろした兄にならうように、ファラミアも隣に腰を下ろす。
「――それで、今日はどうして都を飛び出たのか、教えていただけないのですか」
「…………おまえが勝手についてきただけだろう」
「でも止めませんでしたよね」
「…………」
ボロミアは小さく舌打ちしたが、ファラミアは気にせず、大人しく兄の言葉を待った。こうして家や都を飛び出して遠駆けすることは、そう頻繁にあることではないが、前例がないわけでもなかった。以前にも何度か発作のように飛び出て行ったことがあるが、そのたびに、どんな些細なことであろうとも、ボロミアなりの理由はきちんとあった。ファラミアはそれを覚えている。
「二ヶ月前は都へやってきたアドラヒル大公と剣の手合わせをして、ボロ負けしましたね。その前は兵士と弓の勝負をして惜敗したからで、さらにその前は歴史のテストで私のほうがほんのちょっと点数が良かったからで、その前といえば――」
「わかった、わかった! 言うから止せ!」
降参するとばかりに両手を揚げたボロミアに、ファラミアはにこりと笑う。
「伺いましょう、兄上」
「……だんだん性格が悪くなっているのは、あの灰色の魔法使いに似てきたのではないか?」
「まさか! そんなことはありません」
ボロミアは横目で軽く弟を睨むと、抱えた膝の間に視線を落とした。
「歌を聴いていたんだ」
「歌? 珍しい……物語か何か?」
「…………ソロンギルの」
「…………………………父上にばれたのですか?」
「ああ。誰かが父上に密告したようだ……くそっ」
「なるほど……」
得心したとばかりにファラミアは頷く。
ソロンギルは国の英雄の名だが、ファラミアもボロミアも実物を見たことはない。ボロミアが生まれるよりも以前に現れ、ボロミアが生まれたすぐ後くらいに姿を消した。名将軍。ソロンギルを知る者は、皆そう言った。先代の――ボロミアたちには祖父に当たる――執政は非常に彼を信用し、重用した。来歴は不明だが、実力があったからこそ大将だったのだろう。
父たるデネソールは、彼と間近に接したはずである。誰もが誉めそやしたというソロンギルの人柄も勇も知も、見知っているはずである。にも関わらず、あからさまに忌み嫌う。まるで呪われた者でも見るかのように嫌悪する。そのため、家では大っぴらにソロンギルの話などしようものなら、即、巨大な雷を落とされた。
理由も教えてくれずその有様だったものだから、ソロンギルの話をもたらしてくれたのは親しくなった王城の近衛兵たちだった。勿論彼らはデネソールがソロンギルを厭うているのを知っていたから、話をする時にはボロミア兄弟に固く父上には言わないようにと約束していたし、兄弟のほうでもそれを破ったことは一度もなかった。幸い、デネソールは兄弟がソロンギルのことを知っても、話の出所までは追及しようとはしなかった。
「父上がソロンギルを嫌っていること、バレたら雷を落とされることもわかってるから……こっそり聴いていたのだが。どこから話を聞いたのか、近衛兵に呼び出されて戻ってみたら……出会い頭に雷を落とされたぞ」
「どこで聴いていたんですか?」
「酒場だ」
「……それは場所にも問題があったのでは?」
「酒を飲みながら聴くのが良いのだ」
とうてい若者の発言とも思えないようなことをきっぱり言ってのけるボロミアに、ファラミアは微苦笑を漏らした。
「父上は街の酒場もあまり好まれませんからね……」
「だからそこへ行ったのだ。父上のソロンギル嫌いは知っているが……戦略も剣の腕も、後世に語り継がれてしかるべき方だ。一平卒にも心を砕き、皆彼を尊敬していたという。……いずれ大将になるのなら、彼のようになりたい」
きっぱり言い切ったボロミアの瞳は、木漏れ日を受けて明るく輝いている。
彼なら、きっとそうなれる。なるに違いない。ファラミアは大将になったボロミアを想像し、またその傍らに彼を補佐すべく付き従う自身の姿を想像し、大きく頷いた。
「兄上ならきっとなれると、私も思います」
「ありがとう、ファラミア」
自分を顧みて微笑む兄の顔を、ファラミアはいつまでも覚えていた。