その場に駆けつけた時、ベックマンは彼を取り巻く空気が確かに変わったのを感じた。
温度だけではない。大気の重さすら変化したように感じられた。
重ね合わさるように崩れた瓦礫、焼け落ちた柱、倒れた石塀。焼失した建造物達同様、そこに住んでいた人達もまた、瓦礫に混ざり灰になって崩れ斃れているはずだ。
赤髪は黙したままそれらを見つめ、片膝を折ると右腕で灰を掴んだ。
普段表情の変化が激しい男であるが故に、能面のごとき面に表れる怒りの形相は仁王より恐ろしい。今は彼の背しか見えていないが、目が合えば間違いなく凍りつくだろう。
赤髪の逆鱗に触れた者達の末路は、この時点で決まったも同然だった。
わかっていながら訊いた。どうするのかと。
やはり彼は嗤った。当り前のことを訊くなと。さらに重ねて告げた。
「オレの喧嘩だ。お前らは付き合う必要はねェ」
悪党面で言い切るが、頭の決めたことに従わぬ者があるだろうか? この船に乗っていて。
全員がその場で赤髪に従う道を選んだ。たとえ感傷と言われようと甘いと言われようと、赤髪はその街を好いていた。その家に住んでいた子供と友達になっていた。
理由が必要だとするなら、それで充分だった。
彼の喧嘩を邪魔する気は誰にもない。ただ、見届けたいだけなのだ。
「私怨に付き合う必要はねェのに」
大概お前ら付き合いが良すぎると非難めいた口調で評され、赤髪の傍らにいた灰色の髪の副船長は苦笑した。
何も嫌々付き従う訳ではない。一昨晩酒場で喧嘩を売られた時から気に入らなかっただけなのだ。
やり方の全てが気に入らない。
その上ベックマンにとっても許せぬ振る舞い。理由はそれで充分だ。友人を傷つける輩に容赦しないのは、この海賊団の気風のはず。
副官の言い訳に赤髪は唇を吊り上げただけで、それ以上問うことはしなかった。
正面から叩きのめしたいという赤髪の要望を汲み、副船長や幹部と布陣を話し合い、ただちに行動へ移す。決断と実行力の早さは、赤髪海賊団の誇る所だ。
「全部潰す。何もかもだ。ただしお前らは手を出すんじゃねェ」
これはオレの喧嘩だ。
厳しく断言した船長へ、男達が吠える。
明け方、海に響く鬨の声。それが戦いの合図。
仮にも『偉大なる航路』で名を馳せた赤髪海賊団を、たかが海賊と侮った者達の認識は錯誤も甚だしい。よもや正面から仕掛けてくるとは考えなかったらしく、警戒は穴だらけだ。
慌てふためく敵陣の中、一人切り込んで行く赤髪。朝焼けに彼の外套は朱に染まる。禍々しくもある荒神の襲来を、彼の仲間達は船から見守った。
吹いた風に舞う紅は血の色と紛う不吉色。飛び散るのはしかし、彼の血ではない。
一斉に赤髪に飛びかかろうと、人数の不利をものともしない。カトラスを一薙ぎするごとに、何人もの男達が斃れる。
醜い絶叫、末期の断末魔。己が所業のため、赤髪を敵に回した者達は生涯を終えていく。
次々渡される引導。的確に急所を斬り裂く刃。
それらは皆、赤髪に与する者には勝利を奏で舞う戦神の姿であり、敵にした者には悪鬼の蹂躪に過ぎぬ。
彼の怒りに触れた愚かさを、身をもって知るがいいのだ。
旭日の光の中、全てが沈黙に帰し――朱の海に立つのはカトラスまでも紅に染めた赤髪だけだった。
迎える船員にいつもの笑顔を返すと、海へと飛び込む。驚く船員達を尻目にひと泳ぎし、粗方の血を落とすと甲板へ戻り、出港を告げて部屋へと戻った。
「お疲れ様」
間を置いて船長室を訪れた灰髪の男が、煙草を咥えたまま赤髪を労う。タオルを頭に被ったままの赤髪を見下ろし、沈黙した。
日頃前しか見ずに突き進む男だが、こういう時ばかりは違う。
悔恨。
いや、悼み。
奪われた命は、相手を殺しても戻らない。真の意味で奪った命へ対する償いなど存在しないのだ。
赤髪の痛みを思う。そこにはどんな苦痛があるのか――本人ではないために、やはりわからない。
赤髪の前に膝を折り、彼を抱き締める。包む優しさではなく、護る強さで。
泣かぬ男が、幼子のように泣いているような気がした。勿論気のせいだとわかっている。だが理屈ではないのだ。
数日前、笑いかけてくれた子供のあどけない笑顔と小さな手が思い出され、灰髪の男の胸を痛ませた。