098/軽い

 西陣の江神さんの下宿に、僕は飽きもせずお邪魔していた。
 僕の右手には江神の蔵書のミステリ、視界には染みだらけの天井が映る。最初に来た時と何も変わっていないかのような天井を見ていると不思議な気持ちになる。あの頃に比べて、江神さんと僕の仲は――ただの先輩と後輩、以上になっているのは間違いないと思うのだけれど。表面上はさすがに変わらないようにしているつもりだが(互いに体面や世間体というものがある)、僕はともかく江神さんは変わらなさすぎると思う。まあ、それも江神さんのいいところではあるのだけれど……。
 キャビンをふかしながら、文庫本のページをめくっている江神さんの顔をじっと見つめた。
 こういう関係になって良かったことのひとつだ。ただの後輩が先輩の顔を見つめているのはおかしいが、恋人の顔を見つめるのはおかしくない。江神さんの顔は、僕が好きなところでもある。
 それにしても、もう少し、何か反応があってもいいように思うのだが。先ほどから僕は読書中の江神さんの顔を見つめているが、こうも無反応だと少々寂しい。そんなに文字の羅列に熱中しているということだろうか。もちろん僕だって、本に集中してしまえば他人をとやかく言えた立場ではなくなるのだけれど。
 長くなった灰を、灰皿に落とす。茶色いフィルタを薄い唇へと運ぶ。
 そんな些細な動きすら、僕には愛しいものだ。
「アリス」
 視線はこちらに投げられなかったので、名前を呼ばれたのはてっきり聞き間違いかと思った。
「そないに見てたら、穴が開いてまうよ?」
 一瞬だけ寄越された視線は、悪戯小僧のように輝いていた。
 僕はその微笑に見とれ、次いで体温が急上昇するのを自覚した。
「き、気付いてたんやったら、もっと早く声かけてくれたかて、ええやないですか」
「すまんなあ」
 文庫本を閉じながら、江神さんの微笑は柔らかい。僕がそれに弱いと――わかっているんだろう、この人のことだから。
「あんまりじいっと見てるから、邪魔したらあかんような気がしたんや」
「嘘でしょう」
「や、ほんまに。後書きだけで三回も読み返したわ」
「……せやったら、はよ本を置いてくれたら良かったのに」
「だからすまんって。――見られてるのが嬉しかったんや」
 あんまりな言い訳に、僕は江神さんを睨むしかできなかった。もっともそれがまったく効果を為していないことは、江神さんの表情を見ればはっきりわかることだったけれど。
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