夜の闇に、我知らず笑みが零れる。
歓喜。
昼の光から取って代わった闇の訪れに、胸が高鳴った。半分に割れた月の明かりは朦としており、影淡いと光の境界を曖昧にさせている。いつもこうであるならいいのに。
昼はいけない。すべてをことごとく光で照らしてしまえばまだ可愛い気があるものを、あれは影を際立たせてしまう。
際立っては生きにくい。殊に、人間の目に目立たぬよう闇を徘徊し生きる糧を得る自分のような生き物には。かといってまったくの闇夜は、姿を隠すには有り難いが糧は易々とは道を行かず、食えぬまま暁を迎えてしまうこともある。もとより人ならぬ身であれば、七日や十日喰わずとも生きてはゆけるのだが。
人の姿を借りているのも、人の目を眩ませるためである。人というのは異形のものより同族への警戒が薄い。人のように振る舞えば尚更だ。
案外単純な生き物だと思う。そうでなければおいそれと喰らうわけにはいかぬ。有り難いとほくそ笑むのが善かろう。
さて、今日は獲物にありつけるだろうか。
子供はいけない。肉は柔らかいが、もっと硬めが好みだし喰いでがない。骨まで食べたい時にはうってつけではあるが、夜中に子供がうろついていることは滅多にない。女も駄目だ。脂が多すぎて腹にもたれる。年寄りは皮ばかりで、肉があってもたいてい不味いと相場は決まっている。
男がいい。年寄りでも子供でもない男が。
じっと闇に身を潜めていても仕方がない。少し遠出してみることにした。街の中心でも、夜中に明かりはほとんどない。稀に酒精を商売にしているあたりに、男たちが店から放り出されていることがある。自分にしてみればまったく有り難い話だ。
闇の中をひたひた歩いていてふと、蹄の音を聞いた気がした。周りに集中してみて、どうやらこちらへ向かっているらしいことに気付く。他に人影はない。獲物にするにしても、相手を見定めてからにしよう。そう考え、闇が濃い土塀の側に身を潜めて息を殺した。鎧姿の男でも恐れる必要はないが、鎧を剥ぐのは少し面倒だと思った。
馬が小さく鳴いた。気配を悟られたかもしれない。ああいう獣は妙に人外の気配に敏感だし、同族の中には嫌う者もいたが、俺は嫌いではなかった。喰うと案外旨いからだ。
闇のお陰でこちらの姿は馬上からは見えまい。半月のお陰でこちらからは馬上の姿は何とか見えた。
男だ。それもまだ――若い。鎧も身に着けてはいない。
獲物としては上物だろう。俺はほくそ笑むと、馬の後ろについた。
「もし、そこのお殿様」
年寄りの声音を使うのは、獲物を余計に警戒させないためだ。女の声音を使う時もある。いずれにせよ男を油断させるには、男より弱い生き物だと思わせるに限る。そうまでして声を掛けるのは、馬上にいる人間を襲うのは骨が折れるからだ。下ろしてしまってから近付き、隙を見て飛び掛かったほうがやりやすかった。
馬上の男が振り返る。真っ黒い上着を着た男は厳つい顔ではない。ますます旨そうだ。
「私のことか。如何いたした」
「慣れぬ街で道に迷うてしまいました。連れの娘もくたびれ果て、しまいには熱を出してしまい、難儀いたしております。通りすがりの方にこのようなことを頼むのも心苦しくはあるのですが、お医者様の所まで連れて行っては下さりませぬか」
「ふむ……」
じ、と見下ろされる。視線は何か力があるようで、――もしかしたら正体がばれたかと思い――俺は内心ひやひやした。しかし男は破顔一笑するとあっさり馬から降りた。
「さぞお困りであろう。馬を貸して差し上げるから、娘さんを乗せるといい」
俺が感じたものは気のせいだったかと安堵しながら、それでも獲物の隙を窺いながら少しずつ近付く。
「ありがとうございます、この御礼は必ず差し上げますので……」
次の瞬間、俺は男に飛び掛かるはずだった。筋のある首を噛り声を上げさせぬようにして、臓腑に喰らいつくはずだった。
「……な……?」
俺の腹に突き刺さっているものは何だ。抜こうと思っても抜けぬ。
「――そなたやはり、異形の類か」
腹に突き刺さっているものと同じ、冷たい声が耳に刺さる。
「その剣が抜けぬとあらば、およそ人ではあるまい。最近城下に現れるという人喰らいの正体は、おまえだな?」
何、何だ。この男には俺の正体がわかったというのか。俺の正体がわかるとすれば道士以外にないはずだが、この男からはそんな臭いはしなかった。
何故、何故――
「恨みはないが人に害為すとあらば、放ってはおけぬ。街の平安を保つも、我が務めゆえ」
男が懐から出した符を俺の胸に貼る。全く動けず、男が何をするのか見守る他にない。
腹に刺した剣を引き抜くと、今度は素早く符の上から胸に突き刺してくれた。
そうして俺は滅した。
人気のない道で、抜き身の剣を月明かりに照らしながら刃を表に裏にと返しては眺める。
「血はないんですねえ……でもこれ、このまま子竜どのに返しても平気でしょうか……助かりましたけど……」
背の高い男はしばらくぶつぶつと悩んでいたようだったが、やがて自ら出した結論に納得したのか剣を鞘へと収めた。
「まあ、きっと大丈夫でしょう」
帰ったら老師に今宵の礼状をしたためねばと呟きながら再び馬上の人となり、闇の中を我が家へと姿を消して行った。