088/冬に

 吐き出し、手に掛けた息は外気との差で白かった。
 下村はかじかんだ指先を無感動に見下ろした後、コートのポケットへ手を突っ込んだ。暖かくはないが、素手を出しているよりは幾分ましだ。コンクリートの上に直に座り込んでいるので、体は冷えきってしまっている。それすら気にならず、代わりにどこかで鳴いている鳥の声のほうがよほど気になるといった様子で、コンクリートの手摺りの先にある空を見上げた。
 曇天。
 鈍色の空は雨も降らさずに陽を遮っている。風がないだけが救いだが、早朝であるには代わりなく、日中の蒸し暑さを無視して気温はひどく低い。上空では強く風が吹いているようだ。雲が右から左へだらだらと流れている。
 訪れた部屋の主は、不在だった。
 行くと約束したわけでもなければ来いと呼び出されたわけでもない。主人の不在を予想しなかったといえば嘘になる。それでもこの部屋を訪れたのは、気紛れといえば気紛れだ。訪問に非常識な時間であろうとも、人に問われればそうとしか答えようがなかった。
 さて、彼の人はいつ戻ってくるだろう。
 東京に行っているのなら今日は戻らないかもしれない。せめて昨夜電話ができれば良かったかもしれないが、そんな余裕はまったくなかった。坂井と口付けた後、ねぐらに帰るという彼を見送った。それからベッドに転がっても一睡もできなかった挙げ句に訪れたのがここでは、事情を話した後に叶は笑うだろう。あるいは呆れるだろうか。
 詮なきことが頭を過っていると、エレベーターホールのほうからかすかな足音が聞こえた。革靴らしい足音は、数メートル前で止まったようだった。
「誰だ」
 低い誰何の声は聞き覚えがある。下村は玄関前からひょいと廊下に顔を出した。途端、相手の眉が跳ね上がる。
「……なんでそんな所にいるんだ」
 険しかった精悍な顔は、下村の顔を見るや呆れに変わっている。黒の比翼仕立てのコートに、その下はスーツだろうか。長いコートの裾から、チャコールグレーのスラックスが覗いている。
 下村ははにかみ、耳の辺りを掻いた。
「ひとりで考えてたら、何だかよくわからなくなったので」
「俺の部屋はは駆け込み寺か? それにしてもおまえ、来るなら来るで連絡くらい寄越せ。そうすればもう少し早く帰ってきたってのに……」
 鍵を開ける前に数秒動きを止めて室内の様子を窺った後、何事もなかったようにドアを開ける。促されて下村も入った。
 玄関を入って見通せる奥の部屋は、下村の部屋と同じくらい物が少ない。寒々しい部屋はお互い様だが、金魚がひらひら舞う水槽があるだけ叶の部屋のほうが暖かみがあるかもしれない。ともあれ、冷えた外よりよほど良かった。靴を脱いで上がった所で、叶はいつの間に用意したのか、タオルを持っていた。それを下村に渡してくれる。意味がわからず見上げると、
「シャワー浴びて温まってこい」
 遠慮する間すら与えられず、バスルームへ連れていかれる。
「でも叶さん」
「自覚がないのか? 顔色悪いぞ、おまえ。いいから入れ。話はその後だ。部屋も暖めておくから。「「まさか、一緒に入ってほしいわけじゃないよな?」
 叶の軽口に寒さで強ばっていた表情を綻ばせると、厚意に甘えてシャワーを借りることにした。
 温めのシャワーが、凍えていた体を徐々に溶かしてくれる。外にいた時は気付かなかったが、ずいぶんと体中に力が入り、筋肉に負担をかけていたらしい。
 心地よさにうっとりと目を閉じ、体が芯まで温まったと思った所で上がった。タオルの横に着替えが置かれているのに気付く。あれで案外気の細かい男なのだ。これが桜内だったなら絶対にしない。迷ったが、有り難くスウェットの上下を着込むとリビングに足を向ける。座り心地の良さそうなソファを背もたれに、床に敷かれたラグのほうへ腰を落ち着けた。
 部屋はエアコンのおかげで暖まっており、シャワーを浴びた体は当分冷えそうもない。部屋の主人はどこへ行ったのかと目で探していると、台所で何やら物音がする。水でも飲んでいるのだろうと勝手に納得していると、両手にそれぞれトレイを携えた叶が現われた。どうやら食事の準備をしていたらしい。
「食べてないだろう?」
「いいんですか」
「いいも悪いも、作っちまったからな。安ホテルのモーニング並しか用意できなかったが、構わないか?」
 構わないも何も、いきなり早朝から押し掛けてシャワーまで借りてしまった下村に否があるはずもない。
 トーストに卵はスクランブルエッグ、かりかりに焼いたベーコンにマスタードを添えたボイルドソーセージ、熱いコーヒー。これで文句を言うほうがおかしい。
 いただきますと行儀よく手を合わせて頭を下げ、トーストにバターとマーマレードを塗ってかぶりつく。甘味控えめで苦みのあるマーマレードは、まるで叶そのものだと思った。
 ふわふわに焼かれたスクランブルエッグは、そこらのホテルで出されるものより数段おいしかった。中に溶けるチーズが入っているのが新鮮で、他にも隠し味があるようだった。それがまた美味い。コーヒーを飲みながら言うと、叶は「それはなにより」と優しい眼差しと微笑をくれた。
「叶さんって器用ですね」
「一人暮らしが長けりゃ、誰だってあの程度はできるだろう。おまえだって、目玉焼きは作れるんだろう?」
「ええ、まあ。片手でもできる料理ですね」
「もっと凝ったものも作れるようになりゃ、何だってできそうだな」
 笑いながら下村の義手に触れてくる。木製の義手は金属のそれより温かみはあるが、無機物には違いない。手袋をしているのは義手を隠すためでもあるが、無機物独特の冷やかさを見せたくないからかもしれなかった。
 叶の言葉に頷くと、ソファにもたれた。食後にソファへ移動した叶の足は、下村の頭のすぐ横にあった。
「眠いんだろう下村。寝ていって構わないぞ」
 叶の言葉は下村の虚を突いた。義手を玩んでいた手を止め、振り返る形で叶を見上げる。
「……なんでわかるんですか」
「なんでと言われても。わかるんだから仕方ないだろう。まぁ睡眠不足だろうってことは、俺じゃなくてもわかるだろうな。あんな時間に玄関にいたんだから」
 昨日はブラディ・ドールの営業日だった。その後に食事をしてすぐに眠っても、二時は回るだろう。下村のねぐらから叶のマンションまで、徒歩だと三十分はかかる。まして朝の五時過ぎに玄関先にいたのでは、ほとんど眠っていないに等しい。今は六時。普段ならまだ余裕で夢の中だ。
「床では寝るなよ?」
 喉の奥で笑いながら、長い指が下村の頭を撫でる。もう片方の手はシガリロを取り出し、銜えていた。下村は叶の足に頭をもたれさせ、目を瞑る。髪を梳り、頭皮を撫でる感触だけを感じる。心地よかった。
 坂井が見れば卒倒するだろうか。憤慨するだろうか。あの男がどう思うか、下村にはわからない。わからないことだらけだ。昨夜、彼の好意に気付いたことが奇跡に近いが、あれで気付かなければ相当鈍いとも自覚している。
 もっともそれは坂井に限った話ではない。今こうして触れてくる叶がどういうつもりなのかも、下村にはわかっていない。叶に関して言えば、理由などどうでもいいと思っているのだが。
 桜内が冗談混じりに触れてくるのとも、まったく違う触れ方。ただ心地よい。まるで自分が犬か猫にでもなったような錯覚すら覚える。厭ではない。
 こうして触れることを下村が許した人間はそう多くない。それを誰かと比べてしまうことも、今まではなかった。
 ――坂井。
 思えば下村は彼にも妙な踏み込み方を許していた。よく気が付く男だったから、腕をなくした当初やブラディ・ドールに勤めだしてからも世話になった。命を落としかけた時にも。だからだろうと自分で納得していたのだが、本当の所はどうなのか。昨晩ああいうことがあってから考えていたが、下村にはやっぱりわからない。自分のことなのに、わからないのだ。いや、わかろうともしていないのではないかと思う。それはおそらく正しい。
 下村にしてみれば、そんなふうに自分へ関わろうとしてくる坂井のほうが奇特なのだ。どういうつもりなのか聞いた所で、やはりわからないだろう。
 叶といると、そういった煩わしいことを考えなくて済む。叶自身も下村のことをどう思っているのか語らないし、その程度には無関心なのだろうと思う。その無関心がかえって居心地を良くしてくれている。桜内も叶とほぼ同様だが、彼は叶より下村を構いすぎるきらいがあった。
 頭頂から後頭部を柔らかに撫でてくれる手に、下村は安らぎすら感じる。かつて誰かにも感じたことのあるような感情。その正体を探らぬまま、下村は暖かな眠りに落ちた。
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