その年の残暑は結構な厳しさだった。九月の半ばを過ぎても冷房の類は手放せないほどである。
日本全国でそんな気候で、どうして盆地である京都が涼しいわけがあろうか。まして有栖川の大学の先輩・江神二郎宅には空冷らしき機械は皆無である。そんな中で彼の下宿先たる安アパートでは、居を構えていても大学の夏期休暇を理由に実家へ長々と帰っている者ばかり、訪れる者はよほどの変人か物好きだろうと思われた。
その物好きたる一人が、有栖川である。
「こんにちはー」
廊下に大きく開け放たれたドアの影から顔だけを覗かせ、室内を窺う。部屋の奥に江神がおり、「入り」と手招いている。勝手知ったるとばかりにスニーカーを脱いであがりこむと、この部屋では見たことがない物が増えていることにすぐ気付いた。
「それ、どないしたんですか」
床に胡座をかいて座りこんでいる江神の前には、扇風機が鎮座している。足側の塗装はあちらこちらが禿げ、あるいは黄ばんでいる。ボタン式のスイッチは、いかにも年代物ですと言わんばかりに角張り、銀色のツマミのタイマーと仲良くおさまっている。前に有栖川が来た時にはなかった物だった。
江神は上機嫌な様子で人工の風を独占していたが、後輩思いの彼は有栖川に半分譲った。ついでとばかりに台所へ立つと、珍しくアイスティなどを出してくれる。
「おとつい家賃を大家さんとこ持って行ったんや。そしたらくれた。新しいの買うたから、て。古いのは古いけど、まだちゃんと回るから言うてな――ついでにこのアイスティも大家さんからや。娘さんからもろたらしいけど、大家さんは飲まんからて」
謎のひとつは解けたが、もうひとつはまだだ。
「大家さん、なんで新しい扇風機買いはったんです?」
「こいつの首が回らんようになってもうたんやと」
首が回らなくとも、狭い部屋なら充分に重宝する。廃品回収代わりにされたとも言えなくはなかろうが、貰った江神にしてみれば望外の喜びだろう。少なくとも、無風の熱帯夜明けに寝不足で悩まされる確率は格段に下がったわけだ。
江神の部屋に泊まることがままある有栖川にとっても同様である。江神の部屋を訪れること自体が物好きだろうと何だろうと、暑いものは暑いのだ。過ごしやすくなってくれるなら喜ばしいことだった。
「嬉しいやろ、アリス」
「なんで僕に言うんですか」
「暑い夜に窓締め切っても暑くなくなるやろ?……いたた、アリス、痛い痛い」
笑いながら江神は有栖川の拳を受け止めた。悪かったと言ってはいるが、ちっとも悪びれた様子はない。有栖川の機嫌が直った頃には、アイスティの氷も半分溶けてしまっていた。