景色がぐるりと視界の中で回転する。緑に青に白。輪郭はぼけているのに、色彩だけがやけにはっきり目に映る。しかしそれは長い時間ではない。すぐに体は何かに叩きつけられ、色は奪われる。
「坂井!」
声を聞いた。……ような気がした。
目を開いた時、視界は白かった。緩慢に瞬きを繰り返し、明るさに目を慣らす。視界に映るものを眺めると、どうやら病室らしいことがわかる。
「目が覚めたか」
逆さまに映ったのは、見慣れた男の顔だ。目を瞬くと、男は苦笑する。
「まったく、無茶しやがる。おまえも下村も」
「社長……」
すいませんと言いたかったのに、言葉は渇いた喉にはりついてろくに音を発してくれない。せめて上半身を起こそうと思ったが、手で制された。
「じっとしてろ。頭を打ったんだからな。ドクを呼んでくる」
笑うと、さっさと部屋から出て行ってしまう。大きな背を見送ると、枕元の水差しへ手を伸ばした。が、痛みに負けて諦める。薄暗い天井を見上げて溜息をついた。
何故自分がこんな所にいて寝かされているのか、おぼろげながら記憶を反芻し、納得する。あの場には下村もいた。彼が病院へ運んでくれたに違いない。
下村は、どうしているだろう。
今何時なのだろう。
考えていると、ドアが開いた。
「おう、気分はどうだ」
気安い調子でやってきたのは桜内だ。不精髭が伸びているのは、家に帰っていないせいか。
「悪くはないです」
「そうか。じゃあ脳には異常がないかもな」
外科医の癖にいい加減なことを言うと、シーツを剥いで坂井の体を診察する。他人に自分の体を委ねるのは心許ないが、桜内には何度も世話になっており、逆に言えば――良いことではないが――慣れているので、気にならない。見掛けより名医とあれば尚更である。
「なんでここにいるのか、わかってるか?」
「車にはねられたんですよ」
「どこで、何をしてたらはねられたんだ、っていうのは刑事の領分か」
刑事と聞いて、坂井は自分の血の気が一気に下がったような錯覚を覚える。悪いことをしたという意識はなくとも、世間的に後ろ暗いところは、いくらでもあるのだ。
「ドク……」
「坂井、なんて顔してるんだ。警察が来るとでも思ったか?」
声を抑えても、桜内は明らかに楽しんでいる表情だ。
「事件の届けも出してない。安心するんだな。おまえを病院まで運んできたのは、下村だ」
下村。
坂井はようやく、訊きたかったことを思い出した。
「ドク、下村は」
「あいつはおまえと違ってピンシャンしてたぞ。面倒は全部始末したそうだ」
「どこにいるんですか」
「おまえをここに届けてから、出勤したみたいだな」
「出勤って……」
「もう店じまいした頃かな。あいつが相棒思いなら、見舞いに来るだろうよ」
見舞いなどの受け付けはとうに終わっているに違いないが、桜内のことだからきっと裏からこっそり入れてくれるのだろう。山根も協力してくれるのかもしれない。そうでなければ店も閉店時間を迎える深夜に川中が病室に入れるはずがなかった。
病室を訪れられるからくりはともかく、下村がここに来るかどうかはわからないと坂井は考えていた。そもそも病院に運び込まれるような羽目に陥ったのは、坂井の独断先行が原因だったと言えなくもない。下村は来てくれただけなのに、妙な意地を張って隙を突かれ、車に撥ねられる羽目になったのだ。怒りこそすれ、気遣われることはあるまい。そのあたり、下村は冷淡なのだ。
桜内が出て行くと、坂井は溜息を吐いて目を閉じた。遅まきながら、寝かされている部屋が個室であることに気付いたのだ。桜内への貸しは高くつくだろうか。すべては自業自得と受け入れるしかないのだが。
己の情けなさに再び吐息すると、控めなノックの後に坂井の返事を待たず、ドアが開いた。
「……寝てるのか」
山根かと思ったが、明らかな男の声だ。それも聞き覚えのある。慌てて目をドアへ向ける。
不本意ながら、坂井は訪問者の顔を見て自失した。やってきたのは下村だった。
「狸寝入りか」
「お、おまえ……なんで……」
「来ちゃ悪かったか」
いや、そうではなく。何故ここにいるのかと問いたかったが、疑問は言葉にならず呆けたように口をぱくぱくさせるに留まる。
下村はそんな坂井の表情を面白そうに眺めていた。
「生憎、俺は腹話術も読心術もできないぞ」
「な、なんで、来てくれたんだ?」
「来たら何かまずかったか」
表情から内心を窺うことは坂井にはできない。そもそもこの男が考えること、思考回路は坂井の想像の外にある。勝手に一人で突っ走った自分に怒ることはあれ、こんな穏やかな顔をしてこんな所へ来るなど、思いもしなかった。
――もしかしたら、文句のひとつでも言いに来たか。
ありえそうなことだ。もしブロンズの一撃でも寄越されたなら、怪我の悪化は免れまい。坂井の暴走とて、本当はこの男への意趣返しなのだが、そんな言い訳が通じるとも思えない。
悲愴な決意をして下村を見上げる。坂井が何かを言うより早く、下村は口を開いた。
「……悪かったよ」
「……は?」
間抜けな声と顔で下村を凝視してしまった。彼は俯き、そっぽをむいている。
「おまえに相談なしに動いたのは悪かったよ。まさか同じことをされ返されるとは思わなかった」
早口にまくし立て、完全に横を向いてしまった。坂井は何が起きたのかわからず、ぽかんと口を開けたまま下村の横顔を凝視した。
この男は何を言ったのか。必死に咀嚼して消化しようとしたが、うまくできない。やがて沈黙に耐えられなくなったのか、下村が顔を背けたまま言った。
「……また来る。なんか欲しいものとか、あるか」
「いや、特には……」
「そうか。じゃあな」
愛想のかけらもなく、それでもドアは静かに閉められた。坂井は下村の後ろ姿が消えても暫く呆然とドアを見つめていた。
謝られるとは思わなかった。まして、暴走の理由に気付いているとは。
――どうしよう。
混乱する頭を抱えたまま、明け方まで寝付けなかった。嬉しかったのだと言ったら、あの男はどんな表情をするだろう。当分は店でも日常生活でも不自由を強いられるだろうが、それが何ほどのものだというのか。
翌朝の検診で呆けた坂井を訝った桜内が「打ち所が悪かったか」とからかったのは言うまでもない。