078/凍った

 小さな診療所があった元ヨットハーバーは、病院建設のための工事が進められていたが、深夜ともなるとさすがに誰もいない。病院長になるはずの男は年末に死に、誰が院長になるのか誰も知らなかったが、病院ができるということが重要なのだと考えている男たちがおり、工事はその男たちにより進められている。
 その一件にかかわった男が、立ち入り禁止の札を無視して敷地に踏み入り、岸壁を歩いている。
 深夜だ。
 見えるのはやや離れた場所にある灯台の灯、ホテルの明かりと星。しかし下村はそんなものを気にするでもなく岸壁を行ったり来たりしている。左手首から先を切り落とした時と同じように。
 酔狂だ。
 夜中にこんな所へ行きたいと言い出した自分を棚に上げ、傍で煙草を吸っている坂井へちらりと視線をやった。吸った時だけいっそう強くなる橙の明かりが、ぼんやりと彼の顔を浮かび上がらせていた。
 坂井は文句も言わず、下村の望むがままにここへ連れてきてくれた。車内で待てばよいものを、付き合いが良いのか、こうして傍にいる。
 まさか海へ落ちるとでも思ったか。
 下村の右側は海だ。真っ黒で闇の延長にしか思えないが、潮騒と岸壁に波がぶつかる音が海だと教えてくれている。潮騒を運ぶ風は、湿りを帯びて冷たい。N市が東京より暖かいとはいえ、コートなしでこの季節を、まして夜中を過ごすにはまだまだ辛い。年末、血で汚れてしまった革ジャンパーの変わりに軽くて暖かいコートを買ったが、それでも寒いことに変わりはなかった。
 何度岸壁を往復しただろう。
 気が済み、ようやく下りて坂井に声をかけた。連れたって車へ戻る。すぐに入れられた暖房に、冷えた体が融けるようだった。
 坂井はこういう時、一言も口を聞かない。週に何度か、仕事明けに坂井は下村の部屋を訪れ、そのたびにこうして岸壁まで連れて行ってくれる。夜中に岸壁を歩く、その行為を彼がどう思っているのか下村は知らない。坂井は何も問わなかったし、下村も語らなかったからだ。もしかしたら海に還した腕や沖田、叶や真理子を偲んでいると思われているかもしれない。正しくはなかったが、訂正しようとは思わなかった。下村自身、自分がどういうつもりなのかわからないからだ。ただ坂井の好意に甘えた。
 キーラーゴの前を過ぎる頃には、かじかんでいた体がほぐれていくのがわかる。
 帰ったら風呂に入ろう。湯を熱くした風呂だ。坂井が寄っていくというのなら、レナには及ばないがコーヒーを入れてやるのも良い。坂井は泊まるだろうか。帰るだろうか。
 そんなことを思いながら窓の外へ目をやると、いつのまにかレナも通り過ぎていた。
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