ああ、泣いている。
誰だ? 誰が泣いている?
そんな所でひとりで泣くなよ。こっちに来い。――抱きしめてやるから。
なんで泣いてんだ? おまえが泣くことじゃないだろ?
なあ。――こっちに来いよ。
「起きたのか」
部屋を出ると、廊下でベックマンと出くわした。手に持っているのは海図だろう。昨夜の嵐でずれた進路を、航海士たちと話していたに違いない。あるいはこれから話すのか。
オレは寝起きでぼさぼさの頭を掻きながら、不機嫌に頷いてやった。
「意外に早かったな。昼飯も食いっぱぐれないようで何よりだ」
苦笑しているのは整えていない髪にか、眉間に皺が寄ったままの俺の顔にか。まぁそんなことはどうでもいい。実際オレは機嫌が悪かった。それもこれも低気圧のせいだ。
左腕を海で食われて約半年。片手での日常生活にだいぶ慣れたが、慣れないでいることがある。気圧変化による傷口の痛みだ。幻肢痛とかいうのかもしれないが、ない部分よりある部分のほうが痛いと思うから、多分それは合っていない。
頭ひとつ分はオレよりでかいベックマンの顔を見上げた。
「おまえさあ、あの時泣いた?」
「は?」
面白い。
鳩が豆鉄砲食らったら、きっとこんな顔だ。とはいえ言葉が足りなさ過ぎたかと思い直し、「左腕食われた後」と付け足してやった。今度は渋面になる。
「いったいどんな脈絡だ?」
「あの後、雨降っただろ? 昨日も降ったから」
降った所ではなく、風も吹いた。嵐だったのだ、昨夜は。大波を乗り切るために全員が必死になって船を操り、ベックマンは操舵し、なんとか誰一人欠けることなく乗り切った時には明け方になっていた。それを思えば、昼前にオレが目を覚ましたのは快挙と言って良い。
もっとも、爽やかな目覚めとは程遠く、寝覚めの悪い夢のおかげなのだが。
まさかその夢のせいだとも言えない。ベックマンはただ苦笑すると「あんたの思いつきはわからねェ」とぼやいて下さった。失礼だな。
「違うならいいんだ。ただ、」
「ただ?」
「泣くならひとりで泣くなよ?」
胸くらい貸してやるから。
そう言ってやってから、オレは食堂へ向かった。複雑そうなベックマンの表情が気に入らないでもなかったが、空腹にはかなわなかったのだ。