玄関チャイムへと伸ばした指が細かく震えていることに気付き、坂井は自嘲した。この日は日中に夏日を記録し、午前を回った夜中といえど、暑さの名残を風が運んでいた。
あれから今日、叶に会うまでに時間は経っており、充分に心は落ち着いたと思っていたが、理性とは別の所で何かを恐れているらしい。それが何であるのかを殊更知ろうとは思わない。
今更引き返すという考えはなかった。あの男の来店から今までに与えられた時間の猶予の中、店を出る時も悩み、結局決めてここまで来たのだ。それに、人の気配に聡いあの男にはとうにわかっているはずだ。ここに坂井がいることを。
躊躇いを溜息でごまかすと、ようやくチャイムを押せた。数秒間があった後、誰何される。名を告げると、すぐにドアが開かれた。
「入れよ」
風呂上がりのままなのか部屋着なのか判断がつきかねたが、スウェットの下だけ穿いた叶は、上半身には何も着ていない。均整のとれた体は猫科の動物のように美しい。他意はないのだろうと思いたいが、今の坂井にはまともに見ることができない。
自意識を恥じるように視線を足元に落として俯いたまま、部屋の中へ招かれた。
「よく来たな」
あからさまに誘っておいてぬけぬけと。坂井は心中で毒を吐き、薄ら笑む。
「……予定はありませんでしたから」
「独り身の男が休日前の夜に予定がないのか?」
「たまにはそんなこともありますよ。独り身の男が休日前の夜に独り身の男と過ごすよりは有意義だと思いますが」
坂井の反論に、叶は唇の両端をつりあげた。この男はそういう、人の悪い表情がよく似合う。
「有意義かそうでないかは、招いた当人が決めるものさ。……そんな警戒しなくてもいいだろう」
「! 警戒なんか……!」
「してないと言い切れるのか?」
足音も立てず、叶が坂井に近寄る。坂井は後ずさりそうになるのを堪え、まっすぐ叶を見つめた。表情は穏やかで薄ら微笑んではいるが、その微笑こそが得体が知れない。坂井に本能的な恐怖、あるいは警戒を起こさせるのだ。
それを知ってか知らずか、叶は少し手を動かせば触れられそうな距離にまでやってきている。
「……知ってるか? 警戒されるとかえって構いたくなるんだ」
「知りませんよ」
わざと怒ったようにつっけんどんに返すと、叶の横を擦り抜けてキッチンに入る。笑う気配を背後に感じたが、気付かないふりで無断で酒を出す。
律義に二人分の水割りを作ると、ソファに腰を落ち着けていた叶にも手渡す。
「少しは元気が出たみたいだな」
「え?」
小声は室内の静けさに助けられ、かろうじて聞こえた程度である。不審に思い顔を上げると、叶は胡散臭さを消した顔で微笑んでいた。
「思ったより、大丈夫そうだ」
「何がですか」
「小僧が急に大人ぶってりゃ、気にする人間の一人や二人、いるってもんさ」
坂井は目を瞠った。
「……もしかして、心配してくれてたんですか」
「心配ってほどじゃないな。気にかけてただけだ」
叶らしい言い草に、坂井はふと笑みを零す。
「叶さんって、いい人ですね」
言葉はどうやら叶の意表を突くことに成功したらしい。瞬きするほどの間だけ動きを止めたかと思うと、すぐに何もなかったかのように水割りを飲み干す。
「殺し屋がいい人なもんか」
「稼業と人柄は別物でしょう」
「それにしたって、俺に相応しいとも思えんな」
肩を竦めるとソファの背に体を預け、コイーバのシガリロを取り出し、銜えて火を点ける。生じた匂いは不快ではない。葉の燃える香りも、凜が燃える匂いも。この男の体臭となっている。
慣れてしまうだろうか。匂いのように、この男の細々とした癖や好みを覚えてしまうだろうか。
嫌だとは、不思議と思わなかった。