074/通じてる?

「下村、見ませんでしたか」
 昼過ぎ、坂井が訪れたのは桜内の診療所だった。やる気のない医師が開いている診療所に患者の姿はない。昼休みなのかもしれなかったが、坂井にはわからなかった。
 患者ではない人間の来訪を、桜内は胡乱に迎えた。
「ここには来てないぞ」
「そうですか……」
 溜息を吐くと、診察用の椅子に断りなく腰掛ける。大儀そうにしているのは、桜内の元へ来る前にも心当たりを走り回っていたからだろうか。シャツの胸ポケットから煙草を出す坂井は、途方にくれた表情をしている。
「まるで子供だな」
「……何がですか」
「下村だって一人になりたい時くらいあるだろうよ。おまえみたいな図体だけはでかい男がいつもぴったりくっついてたら尚更だ」
 桜内が言い切ると、坂井は嫌な顔をする。喉の奥で笑いながら、桜内は銜えた煙草に火を点けた。診療所であるにもかかわらず、診察室は禁煙ですらないのだ。
「一人になりたい時くらいあるだろうよ。あんまり構うと嫌われちまうぞ」
 それは猫か。
 揶揄のつもりだった言葉は、坂井の何かを打ったらしい。俯き、握った拳をじっと見ている。桜内は溜息をつき、温くなった緑茶をいれてやった。
「何をそんなに焦ってるんだ」
「……焦ってるように見えますか」
「必死そうには見える」
「…………」
「坂井。あいつはいきなりいなくなったりはしないぞ」
 はっと顔を上げた坂井ににやりと笑い返す。
「それくらいはお見通しだ」
「……あいつにもバレてますかね?」
「それは……どうかな」
 わかっていたらそれなりの対応をしそうなものだ。とはいえ、下村の考えていることは傍目にはわかりにくい、らしい。
 桜内にしてみればわかりやすいと思うのだが、坂井は何をそんなに悩むことがあるのか、そちらのほうがわからない。
「結構あれは何も考えてないぞ、自分に関することは」
「ドクにはわかるんですか?」
「おまえにはわからないのか?」
 疑問に疑問で返され、坂井は沈黙した。かすかな苦悩が見て取れる。桜内は苦笑し、茶を啜った。
「おまえは考えすぎだ」
 だって、と坂井は頑是ない子供のように言い訳した。うなだれているとまるで叱られているようでもある。
「……あいつと話してると、不安になるんです」
「不安?」
 こくりと坂井は頷くと、落ち着かない様子で煙草のソフトケースを弄る。
「俺が話をしててもあんまり聞いてないし、ぼーっとしてるし、色々聞いても返事は曖昧だし……」
 いついなくなってもおかしくない。そんな印象を受けるのだと坂井は告白した。それに対し、桜内は片方の眉を跳ね上げただけだ。
 そんな心配をしているのは、N市の中でも坂井だけだろう。桜内はしかし、言葉を飲み込んだ。
 まったく、なんと面倒な奴に成り下がったのだろう! 坂井の心配は杞憂だ。桜内は推量ではなく、また他の誰からの言葉にもよらず、下村がN市を離れることはないと知っていた。離れることがあるなら、それは恐らく死ぬ時だろうとも。
 下村も下村だ。何故そんな肝心なことをこの男に言ってやらないのか。
(……まさか)
 頭をかすめた着想を、医師は理性で現実的ではないと否定した。が、相手は時に予想の更に上をかっ飛ぶ下村である。ありえないと断言するには早過ぎた。だからといって己の閃きを披露するには判断材料が少な過ぎる。
 次に下村が来たら訊いてやろう。
 うなだれたままの坂井を見下ろし、医師は内心でこっそり笑った。己の考えが合っていたとしても、坂井に教えてやるかどうかは彼にとっては別問題なのである。
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