072/クッキーの崩れる音

 何をやっているのだろう。自嘲を口許に留め、坂井はベッドに腰を下ろした。カーテンを閉めていない窓の外は未だ暗い。時計を見れば、空が白み、日が射し始めるには数十分の余裕があった。
 空と同じく、坂井の心も暗い。違いは、空は日が昇れば明るくなるが、坂井の心には光の一筋も求められないという所だろうか。
 後悔が内心に渦巻いている。抱いた気持ちに対してではない。己の為した行いに対してだ。
 その夜、坂井と下村は店の最終戸締まりを終えると坂井の部屋へ引き揚げた。赤提灯に行くこともあれば下村の部屋へ上がり込むこともある。この日はそれがたまたま坂井の部屋だっただけだ。
 帰って軽く食事をとりながら酒を呑み、下らない話で盛り上がって――飲み過ごした。暫く潰れていたが、復活は坂井が早かった。
 床に転がり眠っている下村に気付き、上掛けをクロセットから引っ張り出してかけてやった。そこまでは良かった。
 滅多に見ぬ下村の寝顔に、酔いの残りが箍を外したまま、口付けてしまったのだ。
(嫌われたくはねえな……)
 シャツの胸あたりを掴み、ベッドに胎児のように転がる。
(嫌われたく、ねえ……)
 下村との仲に距離ができるのも嫌だ。そのくせ欲望はとめどなく、情欲は尽きない。
 想いを告げてしまえ。思うと同時に、そんなことができるもんかと反発も湧く。
 一体どうすれば良いのか。一人で考えていて答えが出るはずもない。それは下村が握っているものだから。
 クッキーが、圧力に耐え兼ねて潰れるような音がしたと思った。勿論どこにもクッキーはない。そんな音は幻聴に決まっている。
 そんな錯覚をしてしまうほど、胸が、押し潰されるかと思った。こんなに哀しいことはないと心が訴えてくる。
 おそらく隣の部屋で下村は何も知らず眠っている。寝顔は存外幼く、知らぬ者のようでもあった。新たな発見を見、心は穏やかでいられるはずがない。
 そっと己の唇をかさついた指でなぞる。先ほどの感触が、薄い皮膚の上に甦り、体が震えた。惚れた相手の無防備な様を前にして心安らかにしていられるほど悟ってもいないし、触れられる距離にあれば触れてしまう程度には小僧でもあった。
(いっそ――)
 どうにもできぬ現状であるなら、壊してしまおうか。一番怖れていることをやってしまえば、後の事態は読めたものだ。
 これはきっとエゴだ。
 下村を困らせることは目に見えていたが、もうこれ以上は耐えられそうもない。触れてしまったから。
 そうと決めたなら早いほうが良い。下村が起きたら告げてしまおう。おまえが好きだと。
 坂井は震える瞼を閉じたが、眠りはどうにも訪れてくれそうになかった。
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