071/幸福

「少し休まれてはいかがですか」
 竹簡の山から諸葛亮が顔を上げると、女官とともに趙雲がやってきた所であった。
 彼は亮よりはるかに年上、今年か来年あたり四十になる年齢のはずだが、いかなる不思議か、亮よりわずかに年上であるようにしか見えない。亮は今年三十である。
「練兵は終えられたのですか」
「ええ。もう日も落ちきりましたゆえ」
 日が落ちきったと言われ、初めて窓の外を見遣る。趙雲の言葉通り空は暗く、星晨の煌めきが宝玉のように濃紺の空を飾っている。先ほど外を見た時には、太陽があったはずだ。
 諸葛亮のそうした些細な動揺に気付いたのか、趙雲は精悍な顔に笑みを掃く。
「よほど集中しておられたのですね」
 好意的な口調で、小さな杯を渡してくれた。労ってくれているのだ。礼を言って杯を受け取る。本来ならば趙雲のほうが上官にあたるが、彼は最初から亮に好意的に隔てなく接してくれている。亮もまた、将軍でありながら気取らぬ趙雲に好意を抱いていた。
「外が暗くなったことにも気付かぬとは、お恥ずかしい。まさか明かりも将軍が?」
「いえ、あれは城の者が気を利かせたのでしょう。それより、まだお帰りにはなりませんか?」
「ちょうど帰ろうかと思っていた所です。将軍も今お帰りで?」
「ええ。城外までご一緒しましょう」
 趙雲に片付けを手伝ってもらい早々に片付けを済ませると、二人は揃って城を後にした。月は炯々と明るく、家路を蒼に染めている。
 趙雲は以前からの興味も手伝い、諸葛亮に問うた。
「軍師どのは日頃政務に精を出されておいでですが、ご自宅には戻られてますか?」
「今は戻ってますよ」
「いえ、今の話ではなく……」
 野暮なことを聞いていると自覚しているだけに、言葉の歯切れは悪い。諸葛亮は羽扇をひらひらさせると微笑んだ。
「確かに、ここ最近はろくに家にも帰っておりませんでした。どうしても早急に片付けねばならないものがありましたゆえ。ですが、それが先ほど終わったので、明日と明後日は休日です。主公の承諾は得てありますから、大手を振って休めますよ」
「そうですか。それなら家の方もいくらか気が紛れるというものですね」
 公私をきっぱり分けている諸葛亮ではあるが、家庭が嫌いというわけではない。むしろ逆で、妻たる黄月英のことは溺愛していると言ってよい。家に帰りたがらないわけはないのだ。それでも問うてしまったのは、時折それらを忘れたように振る舞って見せるからだ。
 亮が近頃忙殺されている仕事の他にも、個人的な事情でも忙しいことを知っている。じきに養子を迎えるのだ。
「子供が来れば、淋しい思いも多少なりと和らぐだろう、とは楽観しすぎでしょうか」
 考えが読まれたようなタイミングに、趙雲は内心で焦りを覚えた。実際は読めるわけがないのだから、焦る必要などないはずなのだが。
「孔明どのは、子供がお好きですか?」
「いいえ。むしろ嫌いなほうですね」
 にこりと微笑む顔に邪気はない。継ぐべき言葉を失った趙雲に、亮は付け足した。
「嫌いな子供を養子に迎えるほど自虐的ではありませんよ。あの子は少々、特別です」
「特別?」
「私が初めて『こんな子供ならば欲しい』と思った子供ですから」
 微笑む諸葛亮の顔。今までに見たことがない。趙雲はしばし呆然とした後、我に還った。
「そ、そうですか。それならば楽しみなことですね!」
「ええ。瞻を迎えた折りには将軍も是非、我が家へおいでください」
 見せびらかして差し上げますと付け加えると「では私はここで」一礼し、道を分かれた。
 日頃ほとんど表情を変えない軍師どのの顔を変えさせる子供とは、一体どんな子供か。誘われたように彼の邸宅に邪魔をするのもいいかもしれない。
 知らず微笑みながら、趙雲もまた残りわずかな家路を辿った。
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