えてして恋愛というものは戦いだと、僕は思う。
相手の気持ちを推し量り、駆け引きし、いかに自分の狙い通りに事を運ぶか。頭脳戦と言えるだろう。
そして、恋愛が戦いであるなら勝敗もあるわけで――残念ながら僕は、戦いの相手に連敗している事実を認めざるをえない。僕がとりたてて弱いのではなく、相手が強すぎる、のだと思う。
相手の名は、江神二郎といって、英都大学推理研究会(EMC)の部長。文学部哲学科所属の四年生。僕より七ツも年上の、正真正銘、男性だ。
紆余曲折があって、いわゆる世間で言うところの『恋人』みたいな関係になって、半年ほどが経っている。その間に江神さんの弱みを握れたことなど一度もない。
「……アリス。親の仇みたいに江神さんを睨んで、どないしたんや」
呆れた声で江神さんの後ろからやってきたのは、EMCの先輩、望月だった。江神さんは読んでいた文庫に栞を挟みながら、「今日は遅かったんやな」なんて言っている。
「親の仇やなんて、そんなんやないですよ」
「そうかあ? 怖い顔して睨んでたで。それとも江神さん、アリスに睨まれるようなこと、なんかやらかしたんですか」
「さあ……覚えはないけど」
何かあるか?と、言葉ではなく僕へ向けた視線で問う。僕がぼんやりしていたせいで、どうにも雲行きがおかしくなってきた。こういう時はさっさと事実の一端を白状するに限る。
「考えごとしてただけです。江神さんを見てたのはたまたまですよ」
「たまたまにしては、剣呑やったで。さては物騒なことでも考えよったな」
ここに来る前に買ったらしい紙コップに入った液体――おそらくコーヒーに口を付けながら、人の悪い笑み方をしている。まったく、ミステリ好きというのはこれだから始末に終えない。何にでも自分の納得がいかないと許せないのだ。自分を棚上げし、僕は内心でひっそり溜息をついた。
「モチさんの考えすぎです。ただ小説のネタを考えてただけですから」
まだ望月は納得しかねる様子だったが、江神さんが助け船をだしてくれた。
「きっと動機とか殺害方法を考えてたんやろ? 小説のこと考えとるとすぐ自分の世界に入ってまうもんなあ、アリスは」
「そういう江神さんかて、本を読み出したらえらい集中して周りが騒々しいても気にせえへんでしょ」
「それはモチも信長もおまえも同しようなもんやろ」
確かにその通りだ。僕は望月と顔を見合わせ、笑った。
話題が逸れたのを機に、織田が何故現れないのか望月に問う。すると彼は苦笑した。
「ゼミのレポート提出が週末なんやけどな、あいつまだ終わっとらんらしいねん」
「じゃ、それを教授に嘆願しに?」
「正確には、進みあぐねとる部分をどう進ませようか、相談しに行ったんや。話出すと長い教授やから、多分あと三十分は来れへんわ」
なるほどと僕と江神さんは相槌を打つ。次いで望月から「マリアは?」と訊かれる。こちらはもっと話は簡単だ。彼女はバイトに行くべく、授業の後、素早く教室を出て行ってしまった。今日は本来ならオフだったのだが、バイト先の先輩が急病で寝込んでしまったため、ピンチヒッターを引き受けたらしい。以前その先輩にシフトを代わってもらったことがあるらしく、「これで借りを返せるわ」と笑っていた。
事情を話し終えると、さて織田を置いて先にリラへ行くべきかどうかと話し合ったのだった。
結局織田がラウンジに現れるのを待ってから四人でリラへ移動した。
「話し合うてる間に来そうやな」
と江神さんが言い出し、それもそうだと雑談を交わしながら待つこと約三十分で織田は現れた。とはいえ、リラでの会話も雑談と変わりない。違ったのは、時期外れだけども花見に行くか否かという話題が出たことくらいか。
四月も半ばを越してしまったが、八重桜は盛りの時期が染井吉野より遅いからまだ充分に見れるだろうとのことで、場所のサーチは望月が担当することになった。
ひとしきり盛り上がり、リラを出た時には日も暮れていた。電車は充分あったが、自宅まで帰るのも億劫だったし翌日の授業が早い時間のコマだったので、江神さんの下宿にお邪魔させていただくことにした。
話はやはり、リラで出た花見の話題に偏る。
「八重桜て、色が濃いですよねえ」
ソメイヨシノは淡い色が上品なので割と好きなほうだが――日本人であの花を嫌いなほうが稀ではないだろうか?――、八重桜は花自体がぽったりしていて色も「薄紅」と表現するには苦しく、正直あまり好きではない。
言うと、江神さんは口許を綻ばせた。
「淡い色の八重もあるんやで? まあ俺も普通の八重はそんな好きやないけど……枝垂れは好きやな」
「え。八重桜にも枝垂れてあるんですか?」
枝垂れ桜は知っていたが、八重で枝垂れる桜があるとは初耳だ。江神さんは頷くと、灰皿に長くなった煙草の灰を落とした。
「うん、あるよ。初めて見た時は花びらが重うて枝が垂れてるんかと思うたんやけどな。そういう種類なんやと教えられた時は驚いたなあ」
初めて見たんは小学生の頃やと江神さんは微笑むが、どうしても『小学生の江神さん』が想像できなくておかしい。彼の幼い頃を知らないせいだが。
「花見かぁ……」
「嬉しそうやな」
嬉しいというより、僕は浮かれていた。
さすがにふたりきりで見たいというのは照れ臭いが、EMC皆で行くならきっと楽しいに違いない。いつもの宴会と場を変えただけにしても、人の心を浮かれさせるだけの魔力が、桜にはある、と思う。
江神さんに主張すると、彼は口許で微笑んだ。
「そないに喜ぶんやったら、都合つけておくんやったなあ」
何の話だろう?
「アリスが桜好きやて、もっと早うに知っとったら、二人で造幣局でも御所でも行ったのに」
「…………」
それは不意打ちでしょう、江神さん。
呆然と江神さんの顔を見つめ、数秒後に僕は赤面した。
こんなふうに、いつも僕は江神さんに負けてしまうのだ。でもいつか逆転サヨナラ決めたりますからね、江神さん。