東京に住んでいた頃は、こんな風ではなかった。
あそこでは、朝起きて、会社へ行って単調な仕事をこなし、時には帰りに同僚と一杯引っかけ、家に帰る。まりこがいたこともあれば、いないことも珍しくない。そうして、いつか時期がきたら――それがいつなのかはわからなかったけれど――まりこと結婚して、家庭というものを築くのだと、漠然と考えていた。
今ではN市でクラブのマネージャーに収まっている。一年も前なら思い描きもしなかったことだ。それが嫌だとか、そういう話ではない。この街に来て大切だったものを失い、別の何かを得て、この街で暮らしていくことを決めた。それは自分の心が決めたことだ。嫌だったら出て行っただろう。
「下村ー?」
背後から寝ぼけた声がかけられる。ゆっくり振り返ると、髪をあちこち跳ねさせた坂井が欠伸をしながらリビングへやってくる。大きな欠伸はまるで肉食動物が気を緩めているようで、下村は目を細めて坂井を見つめた。
「起きたか?」
「おまえは、起きてたんだな」
起こしてくれれば良かったのに、と語尾を欠伸に滲ませる。起きたとはいえ、まだまだ眠そうだ。下村の傍までくると床に胡坐する。窓を背にした下村が遮れなかった午後前の陽光が、坂井の黒いスウェットの膝あたりを照らす。
「飯は?」
「簡単なのなら作ってやるよ。その間にシャワーでも浴びてくれば?」
頭すごいことになってる、と笑うと坂井は顰め面で座ったばかりなのを面倒がるでもなく、立ち上がった。つられるように、下村も立ち上がる。
「じゃ、さっぱりしてこようかな」
言いながらさりげなく下村の腕を引き、唇を掠めとる。離れる唇へ、下村はお返しとばかりに軽く口付けた。
「じゃ、後でな」
また大欠伸をして、バスルームへと姿を消す。下村は台所に立つと冷蔵庫を開けた。
一年前まで考えもしなかったことだ。
誰かと迎える朝。誰かのために作る朝食。誰かの立てる音に安堵する自分。すっかり生活の一部に溶け込んでしまったなと口許を微笑の形に歪めると、チーズとハム、レタスを取り出した。
こんな日々が毎日続けばいいのにと思っている自分が、自分にとって一番不思議なのかもしれない。