046/視線

 視線というものは、きっと本人が思うより強い圧力みたいなものを持っていると思う。というのも、最近しょっちゅう江神さんと目が合うことが多いからだ。
 きっと、僕が見ているのが彼にはわかるのだろう。何故わかるのか?視線が、音や触感のように、なんらかの力をもって、江神さんに「有栖川がおまえのことを見ているぞ」と報せているに違いない。
 わかっているなら見なければ良さそうなものだし、同性が同性をじろじろと眺めるなど悪趣味極まりないとわかっているのだが、見てしまうのが無意識だからタチが悪い。
 とはいえ江神二郎という人は、男の僕から見ても充分観賞に堪えうる――何を言っているんだろう、僕は。
 緩く頭を振って考えを打ち消すと、意識的に窓の外へ目をやる。仲間が集まっている場で、不審な行動は慎みたかった。
 望月と織田が、経済学の話をしている。江神さんの声は聞こえない。笑いながら聞いているのかもしれない。今出川通りの車の流れを眺めていると、ふと顔の右側に何かを感じた。
 なんだろう、と思ってそちらを振り返ると、江神さんと目が合う。まずい。咄嗟に視線を逸らしたが、僕が江神さんを見たことは、気付かれただろう。
 今のは、見られていたんだろうか。だとしたら、何故?ぼんやり見ていた、ようには見えなかった。じいっと、何か言いたそうで……その前に僕が見ていたのに気付いて、それを言及したいんだろうか。だとしたら、後で解散する時に問い詰められても困る。理由なんてないからだ。
 ここはひとつ、急用ができたと言って先に帰ることにしよう。
「なんやアリス、もう帰るんか」
「すんません。用事があったの、思い出して」
 隣の織田が僕の腕を肘で小突く。
「隅におけんな。まさかデートやないやろな?」
 残念ながらそうではない。かといって強く否定するのも怪しまれるので「残念ながら」と答えるに留め、そそくさと帰り支度をし、自分の飲食代を置いて喫茶店を出た。
「アリス」
 呼び止められたのは、喫茶店を出ていくらも行かないうちだ。よく通る声には聞き覚えがある。この事態を避けるために出て来たのに、まったく無駄な努力をしてしまったようだ。
 諦めて振り返ると、江神さんが微笑んでいた。足早に寄ってくると、マフラーを差し出してくれる。
「そそっかしいな。忘れ物や」
 江神さんが渡してくれたのは紛れも無く、僕のマフラーだ。慌てて出たので掴み忘れたのだろう。
「すんません……ありがとうございます」
「それよりな、アリス」
 きた。
「こんなとこで言うことやないけど……最近、よお目が合うのは偶然か?」
 訊かれると思っていたことだったので、さほど動揺せずに済んだ。が、江神さん相手に隠し事をするのは不可能に近い。ちょっとした仕種でも、この人はいつも僕の偽りを見抜く。
「気のせいやない、と思います」
「そうか」
 わずかな沈黙。行き交う車の排気音が耳朶を打つ。逃げ出してしまいたい衝動を抑え、続くであろう言葉を待った。
 どうしても江神さんの顔を見ることができない。伏せて足元に視線を落とす。視線は、顔に感じた。見るなと逃れることもできない。
「ほな、俺がおまえを見てたのは、気付いてたか」
「え」
 思わず顔を上げた。存外真剣な表情の江神さんが、僕を見ている。咄嗟には、江神さんの発言内容を咀嚼できない。
 僕の混乱を見て取ったのか、江神さんはふと表情を和らげ、目にかかる前髪を掻き揚げた。
「目がよう合うてたんは偶然やない。俺はおまえを見てた」
「え……え?」
 情けないことに僕の脳は江神さんの言葉に大混乱をきたし、おそらく傍目からは挙動不審人物に見えていたに違いない。
 江神さんが僕を見てた?何故?
「おまえは単に俺に興味があって見とったんかもしれへんけど、――おまえがそういう態度とると、勘違いしそうになるやないか」
 それでも俺は嬉しかったけどな。
 そんな言葉と、今までに見たこともない綺麗な――男を形容するのにこれほど合わない言葉はないかもしれないが、その時の僕はそう感じた――笑顔を浮かべ、何より視線の艶に僕の動きを止めさせる。どれほどの時間そうしていたのかはわからないが、やがて江神さんは踵を返し、喫茶店へ戻ろうとする。
 僕は反射的に背中を追った。
 あの視線の意味を問えるのは今だけだと、理解より先に体が動いていた。
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