眼下は煌星のごとくネオンが冷ややかな輝きを放ち、頭上はと振り仰げば、ネオンライトに負けじとばかりに円に近い月が輝きを放っている。しかしながら自力で光るネオンは輝きにおいて星晨に勝り、輝きを他力に頼る月の独特の輝きを鈍らせていた。
山からの眺めは、平地に立つビルより数段遠くを見渡せる。それは日が照らす時刻でも、空の支配を月星へと明渡した後でも変わりない。
女がいれば、単純に夜景を楽しんでくれたかもしれないが、生憎、こちらは男が二人。ムードも何もあったものではないと、手摺りにもたれながら有栖川は思った。
連れはといえば、手摺りに腰掛けてキャビンを吸っている。右手の人差し指と中指に挟んだ煙草を口許へもっていき、細く紫煙を吐き出す仕種ひとつをとっても、はまっている。格好をつけようと思ってやっているわけではない分、気障にならずに済んでいる。
夜が似合う男なのだ。無意識に彼を見つめてしまうのは、それだけが理由ではないけれど。
「……何かついてるか?」
不意に問い掛けられ、有栖川は動揺する。彼を見ていたのは事実だが、意味があったわけではない。
言い訳の言葉を探していると、手を伸ばした連れ――江神に頭を乱暴に撫でられる。
「退屈やったか」
「いえ、そんなことは……」
男二人で何故こんなところへやってきたのかは思い出せなかった。それでも緩やかに流れるこの時間を、有栖川は得がたいものと感じている。
「悪かったな、いきなり連れ出して。気分転換したかったもんやから」
「僕は構いませんけど――こんなとこに連れてくるなら、女の子のほうが良かったんやないですか」
周りを見れば、爽快なほどカップルしかいない。彼らは、親密度を他人へアピールしたいのかと思うほど、必要以上に密着している。その中で男の二人連れは明らかに浮いていた。知り合いに後で問い詰められたら言い訳が面倒やな、程度の認識しかしていなくても、カップルからの好奇の視線は居心地が良いものではない。
しかし江神は、有栖川の問いにわずかに口角を持ち上げ、笑った。
「気にするから気になるんや。周りが気になるなら、空でもぼけっと見といたらええ」
「はあ……まぁ、そらそうですけど」
なかなか部長みたいにうまいこといきませんよと心の中で言葉を付け足し、言われた通り空を見上げた。そういえば、空など久しく見上げていない。
「俺はな、アリス」
夜気に溶け込むような声を危うく聞き逃しかけ、慌てて江神を見上げる。江神は有栖川を見てはおらず、短くなった煙草を携帯灰皿で潰すと吸殻を押しこみ、夜空を見上げた。目を少しだけ細めて月を見上げる様は、まるで月からの迎えを待つもののよう。周囲の喧騒から切り離された二人の空間を、誰にも壊されたくはないと有栖川は思っていた。
整った形の指が、彼自身の顎をそろりと撫でる。それだけなのに、有栖川の動悸はほんのわずか、乱れた。江神は囁く声音で言葉を続ける。
「ずっと考えとったんや」
「何をですか」
ごくりと喉が鳴る。どんな真剣な話題を切り出されるのかと、身を堅くした。が、江神の言葉は有栖川の予想をはるかに越えた。
「あいつは飛べたのかと」
「……はあ?」
何の話かと有栖川は首を傾げたが、江神はまるで気付かぬように続ける。
「おかしいやないか。あんな目立つ所やのに、白昼堂々と姿を消して――それでも誰にも見られてないやなんて。見てる奴がおったはずや。なのに現実はそうではない。まさに消えた、飛んでいったとしか思えん状況や。でも人が飛べるか?」
真顔で、この人は何を喋りだしているのだろう――有栖川は呆然と江神の顔を見つめたが、見つめ返す江神は有栖川の同意を求めている。しかし有栖川は江神が何の話をしているのか、まったく理解できないでいる。
何の話をしているのか、わかるように説明して欲しい。
しかし有栖川の口は、感情を裏切って同意の意を示していた。「確かに――」
「人が空を飛べるはずはないから、何らかのトリックがあるんやないかとは思いますが……」
「でもな、アリス」江神は正面から有栖川の顔を見つめる。表情は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えない。
「俺は人じゃないから飛べるんだ」
「そうですか」
聞き流し、頭の中で江神が何を言ったのかを反芻し――愕然とする。
「……江神さん、冗談はたいがいに……」
「俺の言葉を信じたのはおまえが初めてや」
大きな手が有栖川の頭を撫で、見蕩れる微笑を零す。そうして頭を引き寄せられたかと思うと、見た目より筋肉がついた胸へ押し付けられるように、抱きしめられた。
有栖川の頭の中は、もはや混乱の極致だ。
江神の言葉が理解できない。行動が理解できない。
こんなことは以前にあっただろうか。いや、ないはずだ。
「おまえも一緒に飛ばしてやろう」
耳元で囁かれた低音に、皮膚が総毛立つ。
「え、江神さ……」
「大丈夫、離せへんから」
その時には、有栖川は自分の足が地面についていないことを悟った――。
「アリス? 江神さんに喧嘩売ってるんか?」
苦笑しながら有栖川の目の前で手を振ったのは、織田だった。その声にはっと我に返ると、慌てて「なんでもない」と取り繕ったが不自然さは残る。
馴染みの喫茶店で食事後のコーヒーを飲み、雑談をしている場だった。
「俺の顔に何かついとったか」
同じような台詞を本人に言われ、冷や汗が滲む。「すんません、ぼおっとしてただけですから」と言い繕いながら、内心では自分を責めていた。
どないな夢見とんねん。
こんな夢を見たと言って無理にでも笑い飛ばしてしまえれば良かったが、失敗しそうな気がして止めた。
キャビンを挟んだ江神の指が、灰皿で長くなった灰を落とし、口許へ運ぶ。優雅とも言える所作に目が離せなくなりそうな自分に気付き、有栖川は強引に視線を自分のカップへ落とした。
「大丈夫か? おまえ最近ちょっとおかしいで」
対面に座った望月に間の抜けた返事を返しつつ、「そういえば」と強引な話題転換を試みる。幸いにして誰もそれ以上つっこみを入れることもなく、有栖川が提供した話題に議論が移る。
ちらりと江神を見ると、彼もちょうどこちらを見たところだった。首を傾げた江神から慌てて視線を逸らしながら、落ち着かない気持ちを無理矢理落ち着けようと努力した。
夢の中で抱きしめられたのが忘れられないなど、誰にも言える話ではない。