040/どきどき

「坂井」
 こっちに来いと手で呼ばれる。素直に応じて間近に寄れば、笑顔で抱き締められた。これが公衆の面前、たとえばブラティ・ドール店内や公園、繁華街などであればいくらでも拒む理由はあるのだが、マンションの一室に二人きりの状況では、断ることのほうが難しい。
 男に抱き締められて違和感を覚えたのも、ずいぶん前の話になってしまった。とはいえ、従順に収まっているのは居心地が悪い。
「珍しいですね、叶さん」
 ソファに座った叶の脚の間に膝立ちし、いつも彼にされるように頭を撫でる。
「何がだ?」
「叶さんから俺を触るのが」
「ということは、いつも自分から触ってきている自覚があるってことだな」
 言い返せずに沈黙すると、頭を引き寄せられ、素早く口付けられた。
「俺としては嬉しい」
 両手で頬を包まれ、吐息のかかる距離で微笑まれる。坂井は目を伏せ、吐息した。低く落ち着いた声音に心音が跳ねたのは仕方がない。
 惹かれなければ知りようもなかった思いは、知らなければ良かった、とは思わない。ただ、もっと早く知っておけば良かったと思う。認めれば良かった。後悔の意味ではなく、そう思う。
「坂井……?」
 優しい声音が耳朶を打ち、長い指が頬を撫ぜる。
「……なんでも、ありません」
 首を振り、叶の手に己の手を重ねる。指先も、爪の形も、触れ方も、何もかもこうやって明確に象れるほどには覚えている。
 もう、夢の中でしか触れられない。
 できればもっと、ずっと、感じていたかった。
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