東京に行ったはずの殺し屋が戻ってきたと聞いたからではないが、雨の午後、下村は叶のマンションを訪れていた。黒いセーターに濃い色のジーンズを穿いた叶はいつも通りに迎えてくれ、下村は定位置と決めたソファを背もたれにして床に座った。毛足の長いラグが気持ち良い。
叶の部屋は物が少ない。下村もいい勝負で叶のことは言えないが、自分のことは棚にあげることにしている。部屋には大きなソファ(寝室に戻るのが面倒な時のために大きなものを購入したらしい)とガラス製のコーヒーテーブル、コンポ、ダイニングセット、クーラー、金魚の泳ぐ大きな水槽が目を引く。
細々としたものがないから、部屋が寒々しく見えるのだろう。キッチンすら本当に使われているのか疑わしいほど片付けられている。
「好きにしてろ」
と言われ、頷いて寝転がる。ソファで転がればいいのに、という叶の言葉は「ラグのほうが気持ちいいので」と断ったことがあった。叶には「よくわからない奴だ」と笑われたが、ラグの肌触りが好きなのだ。
見上げたコーヒーテーブルに、この部屋に不似合いな包みが置いてあることに気が付いた。笹の葉の包みだ。食べ物に違いない。中身はなんだろう。予測がつかない。ぼんやり見つめていると、叶が傍までやってきた。手にはマグカップを二つ持っている。
「それ、食っていいぞ。美味い巻き寿司だから」
「巻き寿司」
「腹減ってるだろう?」
体を起こして胡座をかく。叶は下村の右側、ソファに座った。マグカップをひとつ、下村へ渡してくれる。
腹は確かに減っていた。夕方まで病院で土木工事の真似事をして、昼に簡単な食事を済ませて以来、何も腹に入れていない。
下村が頷くと、叶は包みの紐を解いてくれた。大ぶりな巻き寿司が一巻、均等に切られて奇麗に並んでいる。
「俺は一つ食えりゃいい。残りはおまえが食え」
「いいんですか?」
「俺はおまえが来る前に食った」
だから残さなくていいと言われたのに頷き、寿司へ手を伸ばす。付けあわせの醤油を少しかけてかぶりついた大きな巻き寿司は、確かに美味い。
無言のまま腹へ巻き寿司を収めてしまうと、叶に頭を撫でられた。
「美味かったか?」
「今まで食べた巻き寿司の中で一番美味かったです」
それなら買ってきた甲斐があったと微笑む表情は、常より優しい。
「でも、俺が食っちまって良かったんですか?」
「食った後で訊いてどうする」
確かにそうだと下村が黙すと、叶は笑ってまた下村の頭を撫でる。
「気を遣う必要はない」
キドニーのところにも持って行ったのだと、叶は教えてくれた。
「残ったら坂井にでもくれてやろうかと思ったが、あいつは量ばっかりで味は二の次だからな。勿体無い」
楽しそうに笑う顔は、まるで子供のようだ。勿体無いと言いながら、叶はきっと別の土産を坂井にくれてやったのだろう。
仲の良い兄弟のようだ。
だとすれば、自分は「兄弟」に憧れているのかもしれない。姉はいたが、兄はいなかったから。
「どうした?」
頭を撫でられたのに首を振ってなんでもないと伝える。
叶と過ごす、こういう時間が好きだった。