最悪な目覚めを迎えることは、年に何度もない。坂井にとっては、たまたま今朝だったというだけの話だ。
目覚めたのは自分の部屋ではない。お喋りで一見陽気な、殺し屋の寝室だった。
傍らを見ても部屋の主はいない。とっくに起きて出て行ってしまったのかもしれない。なんにせよ――彼がいないのは、坂井にとっては幸いだ。こんなみっともない顔を見られずに済んだ。
勝手知ったる他人の家。素っ裸のままなのを幸いと、シャワーを浴びる。体に昨夜の名残はあまり見られない。叶はもともと跡を残す男ではないせいもあるが、あれだけ唇が触れて何の跡もないのは、そのほうが不自然な気がしてしまう。
――なにを考えているんだ、俺は。
昨晩の嬌態を思い出しかけて緩く頭を振り、散らす。
熱い湯で頭も体もすっきりさせると、身なりを整えた。
「飯、食うだろう?」
後ろからかけられた声に驚いて振り返る。にやにやと人の悪い笑みを浮かべている殺し屋が立っていた。
「叶さん……いたんですか」
「俺の家に俺がいたらまずいか?」
意地悪く訊き返されたのが本気ではないのはわかっている。それでも慌てて手を振って否定した。
「いえ、そんなわけじゃないですけど」
「じゃあ、飯食うか?」
どこに「じゃあ」がかかるのかはわからないが、とりあえず頷くと、手招きでリビングまで呼ばれる。ダイニングテーブルにはいつの間に作られたのか、和食の用意がされている。
味噌汁はともかく、魚を焼いたりホウレンソウを茹たりしたのだろうか。――この男が?
違和感に笑いがこみあげそうになるのをなんとか堪える。しかし笑いたくなるほど、叶には家事が似合わない。
「なんだ、変な顔して」
「や、別に……」
「一人暮らしが長けりゃ、誰だって料理のひとつくらいできるだろう」
坂井の考えを見透かしたようなことを言うと、澄まして魚の身をほぐす。魚を奇麗に食べるのは難しいが、見ていて惚れ惚れするほど、箸の使い方は上手い。
「旨いものを食ってれば、少々の悪いことなんか忘れちまうだろう?」
顔を上げて叶を見た。穏やかで優しい微笑は、誰かに似ているような気がする。
「キーラーゴも美味いが、たまにならこんなのも気分が変わっていいんじゃないか」
それでは、叶はうなされていたのを知っていたのか。
今更問いただすのも奇妙な話で――だから坂井は小さく頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
叶の、さりげない甘やかしが好きだと思った。
「――坂井?」
呼びかけられ、はっと我にかえる。
目の前の下村が不思議そうに首を傾げていた。瞳は気遣わしげに坂井を見ている。誰にも関心が薄いこの男が、たとえ目であろうともそんなことを顕にするのは珍しい。
「やっぱり、具合、悪いんじゃないか?」
「いや、大丈夫」
ぼーっとしてただけだから、と言い訳すると、「ますます珍しい」などと言って唇の端をつりあげる。いつもの皮肉が混ざった、あの笑み方だ。
「飯時にぼーっとするなんてな」
「…………」
どういう意味だ、とは舌の上に留めておく。反論は倍ほど返ってきそうだ。
メニューが悪い。
心の中でだけ罵ると、焼き魚に箸をつけた。下村の前に置かれている魚はすでに半分ほど食べられており――かの人同様、うつくしくほぐされ食されていた。
白昼夢を見るのも大概にしなければ。下村という男は何を考えているかさっぱりわからなくても、こちらの隠しておきたいことだけは気付いてしまう時もあるのだから。
自戒しつつ、いつもの勢いで食べ始めた。