031/去年

 冬の海辺に、黒とベージュのコートがはためく。
 砂浜を二人は無言のまま、あてもなく歩く。まるでさまよっているかのように。
 海に行きたいと言い出したのは下村だった。唐突な要望を、坂井は理由も訊かずに首肯ひとつで応じた。下村が自分から何かをしたいと言うのが稀だったのと、互いに差し迫った用事がなかったためでもある。
 とはいえ世間は慌ただしさを増した師走。本社に行けば、それなりに処理しなければならない雑務はある。が、その点は一切無視した。明日まとめてやってしまえばいいのだ、という結論に達したからだ。
 風の強い真冬の寒空、男ふたりで海辺を歩く。
 絵面としては季節以上に寒いかもしれないが、坂井は気温以上に暖かな気持ちでいた。
 一年。
 下村がこの街にやってきて、一年になる。
 それを特別に祝うつもりはないが、一年少し前はこの男の存在を知らなかった。ひょっとしたらそのまま、互いを知らずに、出会わずに過ごしていたかもしれない。今この男が身近にいる喜びは、坂井の語彙力で到底言い表せるものではない。
 失ったもの、いなくなってしまった人も少なくない。だからあの事件で下村があちら側に引きずられなくて、本当に良かった。
 下村がそう思っていなくても、構わない。この男がここにいる、その事実のほうがよほど大事だ。
「坂井」
 前を歩いていた下村が振り返る。茶がかった髪が風に乱されているが、気にする様子は見られない。
 数歩分の距離を詰めると、己よりやや高い位置にある坂井の目を見つめた。
「なに考えてた?」
 微笑する鳶色の眼もやわらかな曲線を描く口元も、なにもかもが坂井には愛しい。
 衝動的に抱きしめると、身体が冷えていたのがわかる。
「坂井?」
 珍しいなと笑いを滲ませた声。
「……色んなこと、考えてた」
 たとえば吹きっさらしにいつまでもいて風邪をひかないだろうか、とか。こんなところで口付けたら左手で殴られるだろうか、とか。
 思いつきのまま口にすれば、腕の中の身体は震えている。――笑っているらしい。
「おまえらしいっていうか……」
 下村は笑いながら坂井の腕を逃れ、停めていた車へと歩き出す。声をかけそびれた坂井をくるりと振り返ると、
「そういうのは部屋でな」
 一言寄越され、またくるりと踵を返す。
 足取りが軽く、早くなっているのは照れているからだ、と、坂井だけは知っていた。
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