030/爪

 男二人、真剣な顔をして向かい合っているのを傍から見る者がいたなら、さぞかし滑稽な光景だろう。本人たちも内心ではおかしいと思っているのだが、構っている場合でもない。
 ぱちん、ぱちんと音だけが響く。
「案外伸びてるもんなんだなあ」
 爪切りと、切られて跳ねる己の爪を眺めながら下村が呟いた。右手五本の指を切りそろえると、坂井は丁寧にやすりをかける。
「気付かなかった」
「……次はもうちょっと早く気付いてくれ」
「自分じゃなかなか気付かないんだよ」
 ちらりとやや上目で坂井を窺う。仕草はまるで猫に似ていた。
「……痛いか?」
「多少」
「ごめん」
「いや……仕方ないだろ」
 苦笑し、やすりをかけ終えると、今度は足の指の爪も切ってやった。気が付いた時にまとめてやっておかねば、足の指でもそのうち怪我をさせられそうだ。
 下村はじっと、爪切りとぱちんと飛んでいく爪を眺めている。
 実際、下村の爪で怪我をさせられたとしても、坂井に下村を責める気はない。なにしろ爪の伸びすぎに気付いたのは今朝だ。正確に言えば昨夜なのだが、夜は夢中になっていてまったく気付かなかった。
 なにで気付かされたのかといえば、背中に立てられた爪痕でだ。ひりひりすると思って下村に見てもらったら、やけに申し訳なさそうな顔で謝られたのだった。まぁ、こればかりは下村を責められない。爪を立てさせるようなことをしたのは坂井自身なのだから。
 両足の爪を切りそろえ、やすりをかけてしまうと広告を丸めて捨ててしまう。
「はい、終わり」
「ありがとう」
 にこりと笑う下村の頬に思わず口付けると、朝食――時間的には昼食――の準備をするために、坂井は立ち上がった。下村は洗濯をする気らしい。たしかに洗濯物を干すにはもってこいな天候ではある。
 飯を食って、少しのんびりして。それでも時間があったら。
 レナにコーヒーを飲みに行こうかと、頭の中で出勤までの予定を組み立てた。
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