017/もういない?

 回廊を曲がろうとした所で、腹のあたりに衝撃を受けた。短い悲鳴があがり、何かが倒れる。自分にさしたる衝撃はないが、相手はそうでもないだろう。ぶつかったのは、諸葛亮の腹ほどにも身長が満たない子供だった。
「大丈夫か?」
 差し出された手は無視され、子供は自力で立ち上がった。亮に小さく頭を下げると、不躾なまでにじっと見上げてくる。亮はそれを咎めず、かえって腰を曲げて小さな彼に目線を合わせた。
「何かな?」
「哥々を見かけませんでしたか、叔父上」
「さぁ。私は見なかった」
「こちらに来たと思ったんですけれど……」
「私が嘘を言っていると?」
 羽扇で口元を隠すように微笑むと、小さな彼――諸葛格は慌てたように首を振った。
「そんなことは言っていません」
「このあたりの廊には階が多い。お前の哥々は、私が奥からやってくる気配を察して、庭へ降りてしまったのかもしれない」
 弾かれるように、格が庭と亮の顔を交互に見た。二人のすぐ脇には、おあつらえむきの階がある。ありえそうなことだと思ったかもしれない。格は拱手すると迷わず庭へと降りていった。幼い彼の姿が見えなくなったのを確認すると、亮は廊の角にある部屋へ静かに入った。
「喬。お前の弟は行ってしまいましたよ」
 華奢な扉を後ろ手で閉め、室内をぐるりと見回す。机の下から、格と同じくらい――あるいは格より小さな子供が顔だけを覗かせる。亮と目が合うと、上目で窺ってくる。
「ほんと? もういない?」
「ええ。庭に下りて行きましたよ。今頃あの広い庭を探し回っているでしょう」
「ありがとうございます、叔父上」
 にこりと人懐こい笑みを見せ、榻牀に座った孔明の腰あたりに抱きつくようにまとわりつく。亮は苦笑しながら、喬の小さな頭を撫でてやった。こんな所に亮をよく知る人物――例えば亮の兄であり、喬や格の父である瑾などが見たら、目を剥くに違いない。それほど亮は日頃から子供を嫌いだと言って憚らなかったのだ。
 劉備の使者として江東を訪れ、久方ぶりに再会した兄・瑾の下を訪れるのは、これでもまだ数度でしかない。兄の息子たちと会ったのは、その回数だけだ。利発な弟とは違い、おっとりした所のある兄だが、子供特有の傲慢さ、傍若無人さがない。利発に見える弟と比べれば下に見られるのかもしれないが、弟のように軽々しく行動を起こさない、慎重な面がある。両手に満たぬ年の子供であるのに奥深い知性があると、亮は感じた。だから喬だけが特別なのかもしれない。
 己の膝によじ登った喬を支えてやりながら、「今日学ぶことは終えられたのかな?」と優しく訊いた。喬は力強く頷く。
「叔父上、前にいらした時に、『次に来た時には面白い話をしてあげますから、きちんと勉強を済ませておくのですよ』っておっしゃったでしょう? 昨日父上から叔父上が今日いらっしゃるって伺って。だから、済ませてあります」
 格はまだみたいだけど、と子供らしい明るさで笑ってくれた。
 亮を見つめる瞳はまっすぐで真っ黒、濁りがない。子供のそんな視線には落ち着かなくさせられるが、喬が自分を慕ってくれていると、自惚れでなく亮は理解していた。
 こんな子供なら、居てもいい。
 不意に亮は思った。
 いずれ自分の後事を託さねばならない時がくる。遅いか早いかはわからない。だが、もし来るのなら、その時は――こんな目をした者に、後を託したい。それがたとえどのような重責だろうと、きっと耐えてうまく凌いでくれる。
「叔父上?」
 小さな瞳が不思議そうに亮を見上げている。
 馬鹿なことを思った。この子は兄の子供なのだ。今は同盟を組んでいるとはいえ、いつ敵に回るともしれない呉の、文官の子。長子であるなら、この子が兄の跡を継ぐ。
 しかし――
 望みがないわけでもない。
 兄である瑾は、利発で聡く見える格の方を気に入っている。そして亮には、未だ子はいない。万が一、養子を迎えることになれば、その時は――。
「……喬、もしもの話だが……」
 もし、お前を養子に欲しいと言ったら。
 お前はどんな顔をするだろうか。
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