欲しかった。
ただ、欲しかった。
胸を焦がすほどに。
狂おしいほどに。
いつも、月だけが見ていた。
星降る夜の願い事 前編
泣いている暇は無かった。
ただ、毎日がむしゃらに働いた。
一年前、幸せだった生活が一変した。
それまで、両親の愛情を一身にうけ、なんの不自由もなく、医療学校を卒業したは、
木の葉病院の看護士として、医師や他のスタッフからの信頼も厚く、患者からも慕われ、
充実した日々を送っていた。
しかし、小さな用品店を営んでいた両親が、商売がうまく行かなくなった為、
新たに店を始めようと偵察に行く途中で、山賊に襲われ多額の借金を残して他界したのだ。
悲しむ暇もなく、借金取りがの所までやって来る。
店と土地を売り払ったが、それでも毎日取り立ては続く。
は、給料の良い夜勤を申し出、睡眠時間を削って出来るだけ日勤もこなした。
身も心も限界だった。
ある夕方、日勤を終えたが病院を出た時、職員通用口からほど近い所に、
木に凭れながら本を読む、ひとりの忍の姿を認めた。
夕焼け空に追いかけられるように、鳥たちが森へ帰って行く。
大きな夕日が、その忍の銀の髪を橙色に染めていた。
忍の名は、はたけカカシ。
この里で、その名を知らない者はいない。
おそらく、彼に適う忍はこの里にはいないであろうと言われる程に、その実力は突出している。
戦闘時には最強の武器となる左目を、普段は額宛で覆い、その表情はいつも飄々として計り知れない。
そのカカシの恩人とも呼べる人物が、この病院に入院していた。
その人は多聞と言い、カカシの父、はたけサクモの古い友人で、
サクモ亡き後カカシをいろいろな方面から支えた人物である。
多聞はカカシを息子の様に可愛がっていた。
その為、カカシは度々この病院を訪れ、その恩人を見舞っていた。
その時に、は何度かカカシと話した事があったのだ。
数える程であったが、その度に彼に惹かれて行った。
いつも穏やかに、優しい声でに話しかける。
多聞の事、任務での失敗談、その日にあった楽しい出来事をほんの数分話すだけだったが
気さくでさりげない話は、いつもを和ませてくれた。
誰か待ってるのかな・・・と、まぶしい夕日を手のひらで覆いながらカカシの方に近づく。
逆光で見えなかった顔が少しずつ見えて来た。
いつもの様ににこりとして、に話しかける。
「や、お疲れさん、ちゃん。もう今日は終わり?」
「こんにちは、はたけさん。この後は12時から夜勤があるんです。」
「そう。じゃ、ちょっと話したい事があるんだけど、晩飯でも一緒にどう?」
びっくりした。
はたけさんが私に話があるなんて。
一緒に晩ご飯なんて、いったい何が?何で?どうしちゃったの?
半ばパニックになっているの答えも待たず、カカシは妖しく微笑んで、
「じゃ、行こうか。」と歩き出した。
半分沈みかけた夕日は、それでもうっすらとカカシの髪を橙に染めていた。
カカシに連れられて行った店は、小粋で静かな料亭風の店だった。
それ程堅苦しさはなく、コスモスやリンドウなど、季節の花がセンス良く店を飾っていた。
小さな個室に通された二人は、飾り過ぎない懐かしさのある料理を、いつも病院で交わす会話の
延長の様な話しをしながら、ゆっくりと味わった。
皿の料理もほとんど食べ尽くした頃、急に少し鋭い視線をに向けたカカシが、口を開いた。
「ちゃんってさ、彼氏いるの?」
「え?・・ど、どうしたんですか、急に?・・・あ、いえ、彼氏はいませんけど・・・。」
仕事仕事の毎日で、ここ1年はそんな事に目を向ける暇などなかった。
でも、カカシに憧れ以上の気持ちを持っていた事は確かだったけれど。
「そ。じゃあ、好きな男は?いる?」
びくっとの肩が上がった。
これほどの忍になると、他人の心が読めるのかと、そっとカカシへ視線を向けた。
しかし、カカシの目はいつもの優しさをたたえていない。
射るような強い目で、を見つめている。
はごまかす事が出来ずに
「それ・・・くらいは居ますけど・・・」と、それがカカシだと言う事は隠して答えた。
カカシはその目を逸らさない。
「ふうん。でも、その男の事は今日限り、いや、今忘れて?」
が何か言おうとするのを遮る様にカカシは続ける。
「君さ、借金あるんでしょ?それ、俺が払ってあげるよ。」
「え?どうしてですか?はたけさんに、そんなことしていただく義理はありません。」
「もちろんタダとは言わないよ。俺の条件をのんでくれるならって事。」
「条件って・・・何ですか?」
の心臓の鼓動が、そのまま痛みとして頭に伝導する。
カカシの視線が更に熱を帯びたように強くなる。
「結婚、して欲しい。」
どうやって家まで帰って来たのか思い出せない。
ただ、その銀色の髪より、もっと銀色に光る月がなぜか怖かった。
フローリングの床にぺたんと座る。
冷たい木の感触が気持ち良かった。
『結婚して欲しい』とカカシは言った。
訳が解らなかった。
お互いに知っている事と言えば、顔と名前と職業くらいしかない。
確かに、はカカシの事が好きになってしまっていた。
でも、思いを告げたことも無ければ、告げられた覚えもない。
それなのに、結婚?
が二の句を告げずにいると、カカシが静かに、しかし絶対的な強い意志を持って続けた。
「結婚してくれればいい。」
「で、でも、私たち・・・。」
「愛し合っていない?」
カカシの声に反応して、頭痛が酷くなる。
「これはビジネスだ。愛なんて欠片も必要ない。君には契約期間終了まで俺の妻になってもらう。
俺は君の借金を支払う。それで全ては丸く収まるはずだ。」
「契約期間?」
「そう。さっきも言ったが、これはビジネス。契約期間が終われば、君は自由だ。
払った金を返せなんて言わないから心配しなくていいよ。」
「それはいつまで、ですか?」
「多聞さんが亡くなるまで、だよ。」
病院で聞く声よりも、確実に低く冷たい声が部屋に響く。
多聞の容態は思わしくなかった。
いつ何が起きてもおかしくない状態。
いくら医療忍術が進んだと言っても、あと半年でさえも耐えられない程、病魔は彼の体を蝕んでいた。
カカシも、医師からそれを告げられていたのだろう。
「半年妻の振りをしてくれればいい。・・・どう?君にとっても悪い話じゃないと思うんだけど。」
言葉が出て来ない。
カカシと結婚するなんて、考えた事も無いくらい信じられない話だ。
嬉しいと思う反面、愛はいらないと彼は言う。
愛のない結婚ほどつらいものはないのではないか。
ビジネスと割り切るには、はカカシに好意を持ち過ぎている。
しかし、連夜の激務で体はぼろぼろ。
看護士の給料では、多額の借金を返す前に、自分が倒れてしまうのは目に見えている。
は逡巡している。
「答えは今すぐじゃなくていいよ。そうだな、3日後答えを聞こう。
休みだよね?朝10時に君の家に行くよ。」
それからは、どうしたのか全く記憶がない。
気付いたら玄関に立ち竦んでいた。
弱々しいコオロギの鳴き声が、夜の闇に吸い込まれるように響く。
半分の月が、別れ際にカカシの銀色の髪を照らした時よりも、更に高い位置から光を放つ。
の不安を煽る様に。
その日の夜勤の事も、次の日どう過ごしたのかも、何も思い出せない。
食事をしたのかどうかさえ覚えていなかった。
でも、明日の朝、カカシは返事を聞きにここへ来ると言っていた。
どうしよう。どうするのが良いのか、悪いのか、頭がおかしくなりそうな位考えたが、やっぱり解らない。
ふと、一つの言葉が思い浮かぶ。
『どうして良いか解らない時は、頭で考えるより、心で感じた方に進むのが、結果は絶対ハッピーよ!』
看護士の同僚であり、親友のヒカリが、随分前に言っていた言葉だった。
頭では、どんなに考えても結論は出せそうになかった。
では、心は?
心は、カカシを求めていた。
借金の事も、多聞の事も、全て抜きにしてもカカシの傍にいたいと思った。
その後どうなのるのか?とか、カカシの気持ちは?とか、また頭をよぎるけれど、
自分の心は確かにカカシを欲していた。
「結婚・・・してみよう。」
勝手に声が出ていた。
カカシにとっては、愛の欠片もないただの取引なのかもしれない。
半年足らずで終わる結婚生活かもしれない。
でも、の心に嘘はないのだ。
カカシを愛している。
その事実だけで、これから先、何があっても耐えられる気がした。
翌朝、10時を少し過ぎた時、玄関のチャイムが鳴った。
いつも、何時間も遅刻をすると評判のカカシだったが、この日はほぼ時間通りだ。
「はい。」
パタパタとスリッパの音をたてて、が玄関の扉を開ける。
「おはよう、ちゃん。」
そこには、いつもの忍服とは違う、
肌触りの良さそうなブルーの綿のシャツにジーンズを身につけたカカシの姿があった。
私服姿のカカシを見るのは初めてではなかったが、の心臓は、どくんと脈打ち、
その頬を薄くピンク色に染めさせた。
普段は額宛で隠されている左目。
それは閉じられたままだが、その上を縦に走る傷を痛々しいとは思わなかった。
「いらっしゃい。お待ちしていました。」
「お邪魔します。」
カカシは、殺風景なの部屋をちら、と見遣ると、
「それで、返事は?」と、唐突に聞いてきた。
まるで、他の会話することが意味を持たないかのようなカカシの問いかけに、
「・・・お受けします。」と、も必要最低限の答えを伝える。
「そ。契約成立だね。明日には、君の口座に必要な金額を振り込むよ。それじゃ、行こうか。」
「え?何処へですか?」
「多聞さんに報告に、だよ。」
あまりにも急すぎて、が事の成り行きについて行けずにいると、
「解っていると思うけど、多聞さんには時間がないんだ。だから、少しでも早く俺が幸せになろうと
している事を伝えなくちゃならない。だから・・・。」
多聞は、自分の人生が長くない事を悟ってから、カカシのこれからを常に心配していた。
サクモ亡き後心を閉ざしてしまったカカシが、写輪眼をその左目に有してから、
少しずつ何かが変わってゆくのを感じていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
師である四代目火影を失い、直後に暗部に入り、「忍」としては成長したかもしれないが、
人としての心は育たぬまま年月だけが過ぎる。
多聞は、三代目火影に頭を下げ、カカシを暗部から上忍師へと導いた。
子供達と触れ合う事で、カカシも子供達と共に成長した。
失っていた心を取り戻し、やっと多聞も心底安心できたのだ。
ただ一つを除いて。
そう、多聞は、自分が逝った後、カカシを支える人が必要だと思っていた。
多聞を、心安らかに送りたいと思うカカシは、急いでパートナーを探していた。
そこで、ターゲットとなったのがだった。
はその事を理解し、カカシと共に多聞の所へ向かった。
朝の光は秋の風をはらんで、の頬をさらりとなでた。
多聞は病室に居なかった。
看護士が日光浴に連れ出したのだろう。
しかし、そんなに長くはないはずだ。
ふたりは、病室で待つ事にした。
嗅ぎ馴れた薬品の匂いが、突然のこの状況には不釣り合いで、
の心臓の音が、その耳に聞こえる程に響いていた。
『うまく演じられるだろうか、はたけさんの婚約者を。
もし、ばれたら多聞さんを酷く傷つける事になる・・・。』
は不安でたまらなかった。
両手を胸の前でぎゅっと握り、俯いたまま動けない。
自分の鼓動以外何も聞こえなかった。
「・・・。」
握りしめた両手に、カカシの指がそっと触れる。
びく、と目を見開いて顔を上げると、ブルーの柔らかなシャツに引き寄せられた。
「大丈夫?」
「あ・・・わ、私・・自信が無くて・・・。」
「心配しなくていい。君はいつものように微笑んでいてくれればいいよ。」
の背中にまわした手に少しだけ力を入れて、カカシが優しく囁いた。
ガチャ。
ドアが開いて、車椅子に座った多聞と看護士が入ってきた。
慌ててカカシから離れる。
「多聞さん、お疲れ様。」そう言って入ってきた看護士はカカシに気付き、
「あら、はたけさん、いらっしゃってたんですか。・・っても?どうしたの?」
看護士は、の親友のヒカリだった。
「あ、あの、・・・私・・・。」
言葉につまるをカカシが助ける。
「こんにちは、具合はどうですか、多聞さん。」
多聞は、にこにことカカシとを見つめて頷く。
「ああ、最近は少し楽だよ。」
「そうですか、良かった。実は今日は、ひとつご報告がありまして・・・。」
ヒカリにも聞かれてしまう!とは焦りカカシを見上げるが、お構いなしにカカシは続ける。
「俺たち婚約しました。来月にでも籍を入れようと思っています。」
一瞬の静寂の後、「えええええ〜!婚約?が?はたけさんと?」
ヒカリの眼はこれ以上ないくらい驚きに見開かれている。
「な〜に?ヒカリちゃん。そんなにびっくりした?」
「だ、だって、ったらそんなこと一言も・・・。」
は、長年の付き合いの親友に、今顔を見られたら全てばれてしまうと思い、
俯いた顔を上げられない。
「ああ、ごめんね。俺が口止めしてたの。ほら、俺ってビンゴブックにも載っちゃってるから、
色々と慎重に事を運ばないとならなくて・・・。でも、ま、そう言う事だから、これからよろしくね。」
いつもの様に、にこりと笑って。
「そうだったんですか。・・・あ、私行かなきゃ・・・。、後でゆっくり聞かせてもらうわよ。
・・・じゃあ、多聞さんまた後で来ますね。」
そう言ってヒカリは訝し気な視線をに送って出て行った。
多聞はずっとにこにこと頷いている。
「さん、ありがとう。カカシの事頼みます。」
「そ、そんな・・・。私の方こそ、よろしくお願いします。」
「ありがとうございます。とふたりで幸せになります。」
カカシの言葉が、秋の柔らかな日差しが差し込む病室に、乾いた音を残した。
ちゃんと笑えていただろうか。
は、前を歩くカカシの背中を見ることなく俯いて歩く。
やっぱり笑えていなかったのだろうか。
何も話さないカカシに不安になる。
「あの・・・はたけさん。」
「ん〜?」
「私・・・だめだったんでしょうか?顔、ひきつってましたか?」
ちら、と振り返り、小さく笑って
「いや、そんなことない。大丈夫だよ。・・・それよりさ・・・。」
「はい?」
「『はたけさん』ってやめない?それから敬語も。
これから結婚するラブラブの二人には似合わなくない?いくら偽装結婚だとしても。」
ちくり
胸が痛んだ。
『偽装結婚』
確かにそうだ。
でも、改めてカカシの口からその言葉を聞くと、やはり気持ちは沈む。
「そうですね・・・。じゃあ、カカシさんと呼んでもいいですか?」
「だめ。」
「え?」
「カカシ。」
「あの・・・。」
「カカシ。『さん』は無し。敬語もね。」
いきなり呼び捨ては厳しい。
はまた心臓の鼓動が早くなるのを抑えられなかった。
「嫌?」カカシは首を傾げて、の表情を伺う。
「い、いえ、嫌ではありませんが、恥ずかしくて・・・。」
語尾がだんだん小さくなる。
ふわりと抱きしめられた。
「ちゃん、可愛い。」
「や、あ、あの、えと・・・。」
「でも、少しずつ馴れる時間は無いんだ。今日中に直してもらうよ。」
背中に回された腕の優しさとは裏腹な冷たい声が、の頭の上に落ちる。
カカシが時折見せる優しさは、の心を揺さぶる。
『もしかしたら・・』
そんな気持ちを抱いた途端、それは見事に打ち砕かれる。
愛はいらないと言ったカカシの言葉を思い出し、『勘違いするな』と自分に戒める。
真昼の白い月が、その姿を自ら隠すように小さく青空に透けていた。
その日は、夕方までの部屋でふたりで過ごした。
これからについて、カカシはどんどん話を進めていく。
来週には、カカシが用意したマンションに引っ越し、
仕事も夜勤を辞め、日勤のみにしてもらう様に病院側には手配済みだと言われた。
そして、来月には入籍。
反論はしなかった。
それはふたりの新しい未来を嘱望したものではなく、あくまでも契約だと言わんばかりの、
カカシの低く抑揚の無い声に何も言葉が出せなかったのだ。
壁の掛時計の時を刻む音が、やけに大きく響く。
「そろそろ帰るよ。」
カップに残っていた、少し冷めたコーヒーを飲んでカカシが言う。
ほ・・・小さな息をが吐く。
漸くこの緊張から解放される。
思えば、今日は朝から緊張のしっぱなしだった。
カカシが訪ねて来てから、病院でも、部屋に戻ってからも・・・。
「そんなに俺と一緒に居るの嫌だった?」
の顔を見ずにカカシが言う。
さっきの小さな溜息が聞こえたのだろうと解った。
カカシと居るのが嫌だった訳ではない。
でも、なんと説明していいか上手い言葉が見つからず、困った顔をカカシに向ける。
「ま、いいけどね。」
お邪魔シマシタ、とカカシは玄関に向かって歩き出した。
は嫌ではなかった事だけでも伝えくて、カカシの後を慌てて追う。
「待って、はたけさん!」
ぴたりとカカシの足が止まり、振り向く。
「やり直し。」
にや、と笑ってカカシが言った。
「あ、・・・あの・・・待って、カカシ。」
恥ずかしそうに小さな声で言い直した。
カカシは満足そうに微笑んで、の両肩に手を置き、顔を覗き込む。
「な〜に?。」
「あのね、私、カカシと一緒にいるのが嫌だった訳じゃないの。
・・・ただ今日は色んな意味で緊張しっぱなしで、何だか疲れちゃって・・・。それに・・・!」
そこまで言った所で、言葉はカカシの唇で遮られた。
そっと触れた唇は、それでも中々離れてくれない。
何が起こったか解らなかったの思考も、次第にはっきりとしてきた。
カカシの胸を押す。
カカシはあっさり体を離し、表情の伺えない色違いの眼でを見つめる。
の眼からは、涙が溢れていた。
もう、これ以上の緊張には耐えられなかった。
カカシと視線を合わせながら、肩を震わせ、溢れる涙もそのままに立ちつくしている。
眼を逸らしたのは、カカシの方からだった。
「ごめん。」
そう呟いて、カカシは部屋を出て行く。
ドアが閉まる無機質な音が、の心に棘を残す。
ドアが閉まった後、はその場に蹲り、声を上げて泣いた。
何でこんなに涙が出るのか解らなかった。
やっと緊張から解放された安堵の涙か。
突然のキスに驚いた為の涙か。
何も言わずに出て行った、カカシへの涙か。
優しくそっと触れた唇は、まるで以前からその柔らかさを知っていたかの様にぴたりと合わさり、
が隠していたカカシへの気持ちを溢れさせた。
どうしようもなく嬉しかった。
でも、それを知るのが怖かった。
『ごめん』とカカシは言った。
そこに、愛はないのだと改めて思い知らされた。
翌日病院に出勤したを、同僚達が取り囲む。
「結婚するんですって?」
「あの、はたけカカシをどうやって落としたの?」
「カカシさんの寝顔の写真ちょうだい!」
は、どう答えて良いか解らず、適当に返事をして微笑しながらやり過ごす。
視線を感じて眼を向けると、ヒカリが昨日別れた時と同じ顔をして立っていた。
「お昼休みに屋上。」
そうに告げて仕事に就いた。
「で?」
「え?」
「『え?』じゃないわよ!いったいどうなってるの?私の納得行くように説明して。」
初秋の爽やかな香りと、薬品の匂いが混じった屋上で、ヒカリが少し怒ったように問い詰める。
「どうって、・・昨日はたけさんが言った通りよ。」
「いつから付き合ってたの?」
「少し前からだけど・・・、結婚の話が出たのは最近で・・・。」
は、ヒカリと眼を合わせられない。
「いくら親友でも、何でも打ち明けられないのは解るわ。でもね・・・嘘だけは嫌。
・・・あなた、本当にはたけさんを愛しているの?」
ゆっくりと顔を上げる。
ヒカリの眼をまっすぐに見つめて言う。
「ええ。愛してる。私、本当に彼を愛しているわ。」
そう言って微笑んだの顔は、今まで見たことも無いくらいに美しく、眩しいほどに輝いて見えた。
ヒカリは満足そうに微笑みを返し
「ああ〜良かった!これでも心配してたのよ。あまりにも突然で罠にでもはまったんじゃないかって。」
「罠って・・・。」
「だって、相手はあのはたけカカシなんだもの。びっくりするじゃない。
それにの顔ったら、とても婚約したての女の顔じゃなかったわよ。」
ぎくり。
背中がざわめく。
「でもさっき、はたけさんを愛してるって言った時のあなたの顔は本物だったわ。
おめでとう、。」
「・・・ありがとう。」
ヒカリが本当に心配してくれて、心底喜んでくれているのが伝わる。
彼女の素直な祝福が嬉しかった。
しかし、これ以上カカシとの事を訊かれたら、
本当の事を話してしまいたいと思う自分が現れそうで、は話題を逸らした。
「・・・それより、ヒカリこそどうなの?ゲンマさんとはうまく行ってる?」
ヒカリは、ゲンマが入院した時に担当になってから、彼と付き合っていた。
顔を輝かせて「そりゃあもう!ゲンマったら優しいのよ〜。この前もね・・・」
この惚気話が始まると止まらない。
は、ヒカリの言葉を聞くともなしに聞いて、適当に相槌を返しながら、
思考は、さっき思わず自分の口から零れた言葉に走っていた。
初めて声にした。
カカシを愛している、と。
それは、親友を安心させる為のものでもなく、この結婚の意味を自分に言い聞かせる為のものでもなく、
心の底からの叫び。
「真実」だった。
カカシの気持ちが自分に向くことは無くても、もう引き返せなかった。
洗い立てのシーツの波の中、高い青空を見上げれば、渡り鳥が群れをなして旅に出る。
色づき出した木の葉に見送られながら。
それから1週間は瞬く間に過ぎた。
ふたりで住むマンションは、最上階の角部屋で日当たりも良く、何よりの好みにぴったりだった。
ふたりとも家具をあまり持っていなかった為、ひとつひとつ店を回りそろえて行った。
箪笥、食器棚、ダイニングテーブル、ソファ、ベッド、家電製品、それに食器や鍋なども。
楽しかった。
「君の気に入った物を買えばいいよ。俺は良く解らないし。」
カカシはそう言ったが、が迷っているとさりげなく促してくれ、
忙しい合間を縫って付き合ってくれた。
その間に2人はすっかりうち解け、仲の良い友達の様な会話が出来るまでになっていた。
一通り家具が入った部屋は、らしいシンプルで使いやすいものに仕上がった。
ふたりは、部屋をそれぞれ持つ事にした。
いくら結婚したとはいえ、これは本当のものではない。
寝室を共にする事は、お互い望まなかった。
上忍師をしていたカカシは、部下である3人が、それぞれ「三忍」と呼ばれる人の元へ行ってしまった為、
今は、上忍としての任務に忙しい。
引っ越しが終わってすぐに、急遽カカシに長期任務が宛がわれた。
入籍はその後にと言う事になり、は1か月以上ひとりで暮らす事になってしまった。
「ひとりで大丈夫?」
「どうして?今までだって両親が亡くなってからひとりで暮らして来たのよ?
子供じゃないんだから・・・。」
はそう言って笑いながら、カカシの着替えをバッグに詰める。
「そうだけど・・・。」
「ふふっ。じゃあ、何かあったらゲンマさんに言うわ。」
「ちょっと待った。何でゲンマ君が出て来るのよ?」
さっきまでの心配そうな顔のカカシは何処かへ行ってしまい、不満顔のカカシが現れる。
「あ、言ってなかった?ゲンマさんはヒカリの彼氏なの。すっごく仲がいいのよ。」
「ふうん?ま、それならそれでもいいけど・・・。」
「着替え、こんなもんでいいかしら?」
「ああ、ありがと。」
「じゃあ、行って来るよ。」
「・・・行ってらっしゃい。気をつけてね。」
は少し不安な気持ちを抑えながら、微笑んで見送った。
澄み切った夜風に木の葉が舞い、星の瞬きを脅かすかのように冴え冴えと輝く満月が、
中秋の夜空に浮かんでいた。
カカシがいない間は、忙しく働いた。
ひとりで過ごすには、まだ不慣れな部屋で夜を迎えるのが嫌だった為、自ら夜勤も申し出た。
ある日、点滴を変えに、あの日以降初めて多聞の部屋に向かった。
「点滴の交換です。」
そう言って入ると、多聞は嬉しそうにに微笑んだ。
「久しぶりだね。」
「ええ、本当に。あ、カカシさんは今長期任務に出ていて・・・。」
「ああ、知っているよ。出る前に来てくれた。どうだい?うまくやっているのかね?」
「ええ。カカシさん、優しくしてくれます。」
点滴を交換し、はにかみながら、頬を桜色に染めて答えるに、
「あなたは正直な人だ。カカシを本当に想ってくれているんだね。」と多聞は更に笑みを濃くする。
「はい。私、心から彼を・・・。」
そこまで言っては我に帰る。
「あ、私ったら、こんな事・・・。交換終わりました。何かあったら呼んで下さいね。」
慌てて部屋を出るを、優しい眼で見つめる多聞だった。
私は何を言おうとしたんだろう。
カカシを本心から好きだと言う事を多聞さんに話してしまったら、それを彼に伝えるかもしれない。
彼にだけは知られたくない。
彼にとって、私はあくまでも契約上の相手。
それ以上であってはならないのだ。
は自分の体を抱く様に腕を掴み、自分に言い聞かせた。
カカシの任務は予定より長引いた。
戻ってきたのは、一ヶ月半後だった。
里を出る時には、まだ爽やかにさらさらと吹いていた秋風も、今は晩秋のそれで、
落ち葉を巻き込みながら冬へと誘う。
久しぶりの里を歩く。
その匂いは懐かしく、その音は心地よく、その景色は安堵を映す。
カカシが待機所に顔を出すと、数人が談笑していた。
煙草をふかしていたアスマが気付いた。
「よお、カカシ。無事帰還お疲れさん。」
「アスマ、ただいま。今回は長引いちゃって参ったよ。どう?こっちは変わりない?」
「おう、平和なもんだ。お前、もう家には帰ったのか?」
「いや、まだ。報告書出しに来た。」
そこへ、千本を揺らしながら近づくゲンマ。
「カカシさん、お帰りなさい。早く帰らないと、可愛い彼女が淋しいって泣いてますよ?」
「・・・何かあったの?俺の留守中。」
「いえ、特には聞いてませんが・・・そりゃ、一月半もひとりで留守番じゃ淋しいに決まってますよ。」
「そ。ならいいんだけど。言われなくても帰るよ、愛しい彼女の元へね。」
アスマとゲンマのひやかしの視線を背に、さらさらと報告書を書き待機所を後にする。
火影の執務室に寄って挨拶をし、疲れた体にむち打って里を翔る。
冷たい風が耳をくすぐり、銀の髪を踊らせる。
ススキの穂が垂れて静かに揺れ、夜の帳が降り始める。
「ただ〜いま。」
突然玄関から聞こえた声に、の心臓が跳ねる。
慌てて玄関に向かおうとすると、リビングとの間のドアが開き、カカシが現れた。
「お、お帰りなさい。」
「うん。ただいま。変わりない?」
「ええ、大丈夫。・・・びっくりした、急で。何も聞いてなかったから・・・。怪我は?」
「ないよ。それより、淋しかった?」
いたずらっ子のように、にや、と笑ってカカシがの手を握る。
カカシの顔を嬉しそうに見ていた眼を、今度は恥ずかしそうに少し伏せて、
「そりゃ、ちょっとは・・・。」
小さな声で答える。
ふわ、と抱きしめられる。
「あ、あの、カカシ・・・?」
顔を上げようとするの頭を押さえる。
「ごめん。少しの間、こうしていて。」
深い安堵を含んだ声でカカシが息を吐く。
そっか・・・。長い任務からやっと解放されてほっとしてるんだね。
本当に無事でよかった。
おかえりなさい。カカシ。
はカカシの背に、そっと腕を回した。
どのくらいそうしていたのか、ふとカカシの体が離れた。
「ありがと、。お風呂入れるかな?」
「あ、うん、すぐ準備するね。待ってて。」
ぱたぱたとスリッパの音を響かせて、浴室に向かうの背中を見て、
リビングの中にも視線を巡らせてみる。
今回の任務に出る直前に引っ越しをし、その時はまだ真新しい家具達が所在なさ気に並んでいた。
それが、この一月半ですっかり壁に、床に馴染み、居心地良さそうに佇んでいる。
自分の部屋に行ってみる。
さすがに数える程しか使わず出たままなので、見慣れない自分の部屋に苦笑する。
ただ、写真立てや机に埃が無い所を見ると、が綺麗に掃除してくれていたのが解る。
忍具を片付け、洗濯物と着替えを持って自室を出た。
キッチンのに声をかける。
「俺がいない間に、すっかり生活感が出たね、この部屋。住みやすい?」
「ええ、とっても。それよりカカシ、お風呂どうぞ。その間にご飯用意するから。
帰るって解ってたら買い物もしたのに・・・。あり合わせの物しか無いけど・・・。」
ごめんね、と申し訳なさそうに呟く。
の頭をくしゃ、と撫でて「いいよ。」とカカシは浴室に消えた。
風呂から上がり、久しぶりにふたりで食事をしながら、この一月半にあった事を話した。
カカシの穏やかな声と、の澄んだ声が部屋の中にこだまする。
時折笑い、驚き、ひとしきり話し終えた時、カカシがひとつ欠伸をした。
「あ、カカシごめんね。疲れてるのに。もう寝て?私もお風呂に入ったら寝るから。ね?」
「ああ、そうするよ。」
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
が風呂から上がると、カカシはソファで横になっていた。
「カカシ・・・寝てるの?」
声をかけても、規則的な呼吸音が聞こえるだけ。
ソファの横に屈み、じっとカカシの寝顔を見る。
疲れていることを示す様に、眼の下にうっすらと隈がある。
少し伸びた髪の毛は、お風呂上がりには水分を含んで垂れ下がっていたが、今は定位置に収まっている。
普段は額宛で見えない左目の傷にそっと触れてみる。
その途端瞼が開いて、赤い瞳がを映した。
「な〜にしてんの?そんなに見つめられたら穴が開いちゃうでしょ。」
「ご、ごめんなさい。起こしちゃった?」
びっくりして思わず立ち上がる。
きっと真っ赤であろう顔を見られたくなくて、カカシに背を向け
「こんな所で寝ちゃったら風邪ひくわよ。」と、少し震える声を抑えて言った。
そんなを後ろからそっと抱き、
「ん〜?そうだね。でも、を待ってた。」
「私を?」
「そ。実はね、今日婚姻届を火影様に受理してもらったんだ。」
一瞬の体が硬くなった。
それは、カカシにも伝わる。
「嫌だった?」
「ううん、そんな事ない。任務から帰ったらって言ってたものね・・・。」
「それでね・・・。」
カカシはパジャマのポケットを探り、自分の胸にの背中を付けたまま彼女の左手を取る。
「これを君に渡したくて。」
薬指に、控えめに光る銀の指輪をそっとはめる。
「カカシ・・・!」
振り向こうとするを制して、
「俺にも付けてくれる?」と、もう一つの指輪をに渡す。
の背中越しに差し出されたカカシの左手。
その薬指に、震える手でのものより少し大きい指輪をはめた。
顔も見ることなく交わされた指輪。
契約の印とも思えるそれだったが、はそれでも嬉しかった。
「ありがとう、カカシ・・・。嬉しい。」
「・・・良かった。・・・じゃ、おやすみ。」
そう言って、あっさり体を離すと、カカシはの顔も見ないままに、自分の部屋に入って行った。
愕然と立ちつくす。
たとえ偽装でも、結婚指輪を用意してくれたカカシに、もっと伝えたい事があったのに。
最後まで顔を見ることも許されず、言葉さえも遮られてしまった。
カカシにとっては、本当にただの契約印なのだ。
そこには、愛が入り込む一分の隙も無い事を知る。
半年後には、なんの意味も持たなくなる指輪でも、にはやはり大切にしたいものだった。
でもそれは自己満足なだけの、身勝手な気持ちでしかなく。
はベッドに身を投げ、シーツに顔を埋めて泣いた。
優しいけど、淋しい。
嬉しいけど、切ない。
幸せだけど、つらい。
そんな複雑な思いを胸に、声を殺して泣いた。
指輪と同じ光を放つ月が薄い雲に覆われ、ぼんやりとその姿をの部屋のカーテンに映していた。
今日はの誕生日だった。
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