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明かり取りの窓から入る、日の光に照らされた人工的な中庭。
小ぶりながら手入れの行き届いた植え込みと丸砂利が一面に
敷き詰められ、植え込みの少し奥にはこの静かな空間に時々
カコーン、と音を響かせる鹿威し(ししおどし)が見える。

いつもの見慣れた会長の部屋で、その光景を一瞬だけ
眺めやりながら、遼(ハルカ)の顔を思い出した。

お前の元に帰ったら、もっとお前を甘えさせてやる。
お前の元に帰ったら、数え切れないほど沢山のキスをしよう。
そして、お前の元に帰ったら、もっと激しくお前を抱いてやる……

「……頼んだぞ。」

紫檀のテーブルを挟んで向かい合っている会長に
俺は返事代わりに頭を下げた。


****************


「ハルカ先生、今日はリョウは来ないの?」

私、折原遼(オリハラハルカ)が勤める大学病院に、週3回リハビリに
通ってくる富樫桃(トガシモモ)ちゃんが、私の顔を見るなり
尋ねて来る。
モモちゃんは私のパートナー、相模良哉(サガミリョウヤ)と初めて
会った時以来、何故だかリョウにすっかり懐いていた。
リョウが子供好きする方だとはあまり思えないのだけど、と内心
苦笑しながらも、二人の様子を嬉しく思いながら私は見ている。

リョウは時々モモちゃんのリハビリ終了時間に
ふらっと顔を出してくれる事があった。
リョウが何かを話す訳ではないのだけど、幼稚園でこんな事が
あったとか今日のリハビリは辛かったとか、次々と色んな話をする
モモちゃんに、うんうんと頷きながら話を聞いてあげている。
私の時もそうだけど、リョウは本当に人の話を聞くのが上手。
まぁ話などしなくても、私の考えている事位、リョウはすぐに
見抜いてしまうのだけど。

「リョウもお仕事が忙しいですからね〜。
 でもまた必ず顔を見せてくれると思いますから、今日のところは
 リョウを許してあげてくれますか?」

「そっか〜、わかった。じゃあまた今度会おうってリョウに言ってね。
 バイバイ、ハルカ先生!」

そう言ってようやく慣れてきた松葉杖をつきながら、手を振って
お母さんの元へ行ってしまった。
私も微笑みながら手を振り返し、帰る準備をする為に病院の自室に
向かう。
夜勤明けで仕事自体はもっと早くに終わったのだけど、モモちゃんの
リハビリが昼までだったので、それが終わるのに合わせて帰る事に
していた。


着替えを終えて病院の裏口から出ようとした所で『ハルカさん』と
呼び止められた。
振り向くと研修医として私の下についてくれている
市川一真(イチカワカズマ)君。
現在研修医は12名いるのだが、イチカワ君は私の専門分野の
心臓血管外科を学びたいと言う事で、4ヶ月ほど前から一緒に
勤務していた。

「どうしました?」

「少しだけいいですか?」

「何かわからない事でもありましたか?」

そう聞く私に淀みなく、はい、と答えた。
イチカワ君はわからない事があるとすぐに質問をして解決する
タイプで、疑問を後に残したりしない為、その場その場でしっかり
習得していく。
それはそれでいい事だけど、実際現場にいる私達にしてみれば
質問に答えている場合ではない事が多々ある為なかなか難しい。
でも将来の為には、やはり疑問を曖昧にしない医師が必要だと
思うので、私は出来る限り答えられる時は答えるようにしていた。

「505号室の中野さんという65歳の患者さんについてなんですが、
 何を言っても手術はしないという一点張りで、全く説明を聞こうとも
 してくれないのです。
 確かハルカさんの担当でしたよね?」

病院では大抵の人達が『オリハラ先生』か『ハルカ先生』と私を
呼ぶのだけど、イチカワ君は何故か私の事を最初から
『ハルカさん』と呼ぶ。
別にどんな呼ばれ方だろうが構わないのだけど、私の名前を
口にする度に、ジッと見詰められるようなその視線は、
はっきり言ってあまり得意ではなかった。
リョウの、一瞬で何もかも奪い取られてしまうような甘美な視線とは
違い、何かを伺うような、一つずつ絡め取っていこうとするような、
そんな色を持つ視線は何故だか私を不安にさせてしまう。

その視線にどんな意味があるのか、私だってわからない訳じゃない。
けれど、自分の目指している分野をこなしていく先輩を見て
憧れるというのは良くある事。
だから一日も早くその夢から覚めて、自分の進むべき道を
模索して行って欲しいと思う。

「合間を見て中野さんと雑談をしたりしながら、やっと明後日
 話を聞いてくれる約束をいただけましたよ。
 彼の場合、心臓の手術は難しいから助からないというイメージを
 持っているようです。
 でも病状を見る限り、当然危険性がゼロというわけでは
 ありませんが、限りなくそれに近いと私は思ってます。
 ですから手術の内容、必要性、危険性そして他に代わりとなる
 方法があるかなど、詳しく説明させていただくのは当然ですが、
 時期を失することなく手術を受けられることの大事さを
 お話しします。
 適切な手術期間に適切な手術を行うと活動範囲も広がる事、
 多くの方が職場復帰しスポーツさえ楽しめるようになっている事
 なども合わせて話をしようと思っていますよ。」

そう答えると、またあの視線で私をジッと見詰めた後、
参考になりました、と頭を下げた。

「他にはないですか?」

と聞くと首を横に振って、ありがとうございました、と素直に
お礼を言う。
まだ23歳という若さなのだから、次々と色んな事を吸収し、
患者さんの気持ちになってあげられる医師に成長して欲しいと思う。
もちろん私もまだまだこれからですけどね。