桜の季節もあっという間に終わりを告げ、今ではすっかり初夏の暖かい風が吹き始めている。
今年の夏は暑くなるのだろうか、と夜勤明けの頭の片隅で過ごしやすい故郷の涼夏を思い描きながら、着替えの為に私室に戻ろうとナースステーションの脇を通り過ぎようとした時、中にいたスタッフに声をかけられた。
「折原先生、青柳さんという方からお電話が入ってます」
「青柳さん……?
わかりました。
部屋に繋いでください。」
そう答えて俄かに歩を早めて部屋に戻り、電話が置いてあるデスクに近寄りがてら羽織っていた白衣を脱いで無造作に仮眠用のベッドに置く。
私の知り合いで、青柳という苗字の人物は健人君しかいない。
けれど五人衆の子達には私の勤務日程を教えてあるのだから、健人君であれば私が勤務を終えて携帯の電源を入れるまで待ち、そちらに連絡を入れて来る筈。
それがわざわざ病院にまでかけてくるというのは……
まさかリョウに何かあったのだろうか、と不安に逸る気持ちを抑えながら急いで受話器を取り上げ、転送されている事を示す、赤く点滅しているボタンを押した。
「折原です」
****************
けれど電話の相手は健人君ではなく、思いも寄らなかった人物。
私はその人から意外な話を聞かされた。
リョウに緊急の何かがあった訳ではなかった、とホッと胸を撫で下ろし、首に掛けていた聴診器を外してカタンと机の上に置きながら、その相手と電話口で苦笑し合う。
それから電話を切るなり急いで着ていたケーシーを脱ぎ、Yシャツのボタンもそこそこに上着を羽織ると、ネクタイを手に持ったまま私室を飛び出した。
声をかけて来るスタッフにおざなりな挨拶を返しながら持っていたネクタイをポケットに入れ、いつ連絡が入ってもいいように、昇龍のストラップを下げた携帯を右手で握り締めて裏口に急ぐ。
そして自動ドアを出て家に向かう方向に視線を走らせたところで、太陽に照らされて黒い光沢を放っている、今ではすっかり見慣れた一台の車を見つけた。
車の事などさっぱりわからない私でさえ、一目で高いとわかるエレガントなボディに腕を組んで寄りかかり、スッキリと無駄のない黒のスーツ姿でタバコを咥えながら射抜くような視線をこちらに向けている人の存在も……
「リョウ……」
もちろん普段でもオーラの様な物を纏ってはいるけれど、それでもいつもは私が思うヤクザや極道というイメージをそれほど感じさせないのに、今のリョウは苛立っているのが一目でわかるほどピリピリと危険な雰囲気を漂わせていた。
その空気に触れるだけで肌が切り裂かれてしまいそうで、周囲に時々見える人達もリョウの方に視線を向けないようにしながら、出来るだけ距離を開けて足早に通り過ぎているようだ。
今のリョウの様子を見ればその気持ちは充分にわからないではないけれど、私は先程の電話でその理由を聞かされているだけに、余計堪らない愛しさがこみ上げる。
急いで歩いた為に荒いだ呼吸を立ち止まって少し落ち着かせると、まずは手に持っていた携帯をスーツの胸ポケットにしまった。
それからリョウの代わりに私に向けられている周囲からの視線は一切気にせずに、リョウだけを見て微笑みかけながらゆっくりと歩み寄って行く。
その様子を見て、何かしらの形で私が今の事情を知らされたと気付いたのだろう、纏う空気と鋭い瞳を僅かに和らげてこちらを真っ直ぐに見詰めながら、私の歩みに合わせるようにゆっくりとタバコを味わい始めた。
合わせた視線を一瞬たりとも逸らさず、リョウに一歩近付く度に一つ嬉しさが増し、また一歩進むと一つ愛しさが増して、それと共にここまで香ってくるリョウのタバコの煙が私を一歩深く包み込んでいく。
リョウは私が辿り着く寸前、左手の指で挟んだタバコを地面に落とし、形の良い、薄めの唇の間から溜息交じりの煙を吐き出しながら磨き込まれた靴でそれを踏み消した。
そしてそのまま何も言わずに車を顎で示すと、自分は運転席に乗り込んでいく。
微笑んだまま頷き返し、私も随分律儀だな、と内心苦笑しながらリョウが消したタバコを拾い、最近では自分がタバコを吸わないのに持ち歩くようにしている携帯灰皿に入れる。
それをズボンのポケットにしまい、まるで遠足に出発する子供のようにワクワクしながら、いつもの後部座席ではなく助手席に体を滑り込ませた。