首1
「あぁ折原君、丁度いい所で会った。
君に電話をかけようかと思っていた所だったんだよ。
今帰りかい?」
「お疲れ様です。
えぇ、夜勤明けなのでこのまま帰宅するつもり
だったのですが、何かありましたか?」
夜勤を終え、私室で着替えを済ませてから自宅に帰ろうと廊下を歩いていた矢先、私が所属する第一外科の里山(サトヤマ)部長に声をかけられた。
50代半ばの里山部長は呼吸器疾患の分野で長年功績を挙げられている方で、私が心から尊敬する医師の一人でもある。
大学病院というある意味特殊なこの環境では、やはり内部での派閥争いやら何やらがどうしても付いて回るものだけど、私は元々そういう事柄に無頓着なので、それほどそういう方面を意識されていない里山部長が昨年の春からその役職に就かれた事を、とても喜ばしく思っていた。
「いや、何かという訳ではないんだが、今日の夜、
少し時間を取れないかい?
今日が急だというなら週末の夜でも構わないんだが。
実は君に改めて会って貰いたい人がいてね。」
自分の勤務日程とリョウの日程を頭に思い浮かべる。
今日はリョウが早めに帰宅する予定なので、帰りが遅くなると言っていた土曜なら大丈夫だろう。
「土曜の夜でしたら大丈夫ですが……」
今まで部長とは何度か食事をしたり飲みに行ったりする機会はあったものの、あくまでも他の医師や看護師達が一緒だった。
なのに私に改めて会って貰いたい人というのは……?
すると部長が苦笑しながら私の肩をポンと叩く。
「あまり堅苦しく考えないでくれ。
去年ここに入院していた娘の絢菜(アヤナ)を
覚えているかい?」
「えぇもちろん。
自然気胸で入院されていましたよね。
その後の経過はいかがですか?」
自然気胸というのは穴の開いた肺から漏れた空気が胸腔内に流入する病気で、元々痩せ方の若い男性に多いのだけど、患者さんの5人から8人に1人ぐらいの割合で女性にも発症する。
内科的な治療で治まる場合もあるけれど、部長の娘さんは外科的手術が必要だったので、私は直接執刀医にはならなかったもののチームの一員として手伝いをした覚えがある。
確か20代前半で、なかなか可愛らしいはにかみ屋なお嬢さんという感じの女性だったけれど、そんな経緯で何度か私から声をかけて言葉を交わした事があった。
「おかげ様で体は順調だよ。
その節は君にも世話になったね。」
「いえ、でも順調なら良かったです。」
「実はその娘が君にとても感謝をしていてね。
君が気軽に声をかけて入院中の不安を取り除いて
くれたおかげで、ようやく安心して治療に専念出来、
元気になれたと。
そこでお礼代わりに食事でもどうかと思ってね。」
「え?」
「君もわかるだろうがあれは内気な子でね。
ずっと女子校だったし私が厳格過ぎたのも原因なん
だろうが、少し男性を怖がっている節があるんだよ。
親としてもそろそろ心配を始めていたんだが、その
娘がどうしても君にもう一度会いたいと言ってね。
親バカなのはわかってはいるんだが、娘があんなに
何かを頼んで来た事は今までに無かったものだから、
どうしても叶えてやりたくて。
君が初恋の相手だと言うのでね。」
突然の話に私はすっかり面食らってしまい、何と言葉を返していいものやら迷ってしまった。
すると部長は微笑みながら言葉をかけてくる。
「無論これを機に君が娘と交際してくれれば私としても
嬉しいが、そこまで贅沢は望まないよ。
まぁ親バカな私を憐れだと思って、一度だけ食事でも
付き合って、男性が怖い存在ではないと教えてやって
くれないか?」
部長が娘さんをとても大切にしているのは元々知っていたし、一度食事をするぐらいなら別にリョウも構わないだろう。
「私では力不足な気もしますが……
でもせっかくのお誘いですので、今回だけお付き合い
させていただきます。」
私の返事に部長は喜び、土曜の7時に駅前にあるホテルのロビーで、と言ってにこやかに去って行った。
よりにもよって、同性愛者の私が初恋の相手ですか……
何だか娘さんも部長も少し気の毒に思いつつ裏口を抜け、いまだ冷たい冬の風が吹き荒ぶ中、コートの両襟を立てて顔を埋めながら家路を急いだ。
|