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足1

接待で遅くなってしまった為今ではすっかり夜の帳が下り、田舎の澄み渡った空とは違う、スモッグ越しの月明かりと所々に灯る街灯が辺りを照らし出している。
都心でありながら落ち着いた雰囲気に満ちた高級邸宅街の一角、6階建てという低層にこだわった重厚なマンションが私と恋人の柚月さんの住居だった。

秘書室の桜井が運転する車で門を抜け、アプローチを進む。
両脇には四季を感じさせる様々な植物が植えてあり、都会の中にいる事を少しだけ忘れさせてくれる静寂と緑に包まれ、それを見ながらホッと息を吐いた。


柚月さんと一緒に暮らし始めた当初は以前から私が住んでいたマンションで過ごしていたものの、その3ヵ月後に私達はここに越して来た。
とは言ってももちろん半年間だけの住居で、残り半分は宿で一緒に過ごしている。
だからその半年の為にわざわざ家を買い換える必要がないと柚月さんは何度も言っていたけれど、元々一人暮らし用で買った家は二人で暮らすには少し手狭だったし、なんと言ってもアトリエスペースを取る余裕が無く、それまで小野さんの家の一角を住居兼アトリエとして借りていた柚月さんは、私の家に越して来てからも絵を描く時は小野さんの家に通っていた。

絵を描いている時の柚月さんは普段のあのふわふわした感じとは全く違い、自分の納得がいくまで妥協を許さず、誰かが声をかけない限り寝食も忘れてしまうほどその絵の世界だけに没頭していく。
だから一度アトリエに入ってしまうと、区切りがつくまで何日でもその部屋だけで過ごす事が多い。
もちろんそれが柚月さんという人なのだし、そういう部分も全て含めて尊敬し愛しているのは事実。
けれど柚月さん専用のアトリエを増設した宿とは違い、こちらで過ごす間のアトリエの場所が、小野さんの家というのがなんともいただけなかった。
別に小野さんだからという訳ではなく、社長業の間、私達はただでさえ一緒に過ごせる時間が少ないのに、何日もアトリエに籠もってしまえば家に帰っても来ないので寝顔を見ることすら出来ない。
だからあらかじめいくつか見つけておいた目ぼしい物件に連れて行き、このマンションのアプローチにいつまでも目を奪われていた柚月さんの様子を見てここに越す事を決めた。


「月曜日は12時にお迎えに参ります」

車が停まり、私が乗っていた後部座席のドアを開けてくれた桜井に 『ありがとう』 と答えながら車を降りてエントランスロビーに入っていく。
落ち着いた照明に統一性の取れたデザイン。
短期間で選んだわりにはなかなか気に入っている住居だ。
出迎えてくれたコンシェルジュに軽く頭だけ下げて挨拶を返し、メールボックスからいくつか入っていた郵便物を取り出すと、足早にエレベーターホールに向かって1階にいたエレベーターにそのまま飛び乗った。
自宅がある6階のボタンを押すと静かに扉が閉まり、ウィンという音を立てて上昇を始める。

エレベーター内の壁に寄りかかりながら来ていた郵便物を見ていくと、手書きで宛名が書かれた柚月さん宛ての白い封筒が一通入っていた。
思い当たる節があったので何の気なしに裏返してみると、やはり 『徳田香苗』 という差出人の名前が達筆な字で書かれている。
この関東地方ではない方面に住んでいるというその人物は、以前特集を組んで柚月さんの絵を紹介していた美術雑誌を見て、一目でファンになったという手紙をその雑誌社を通して数ヶ月前に送って来た。
以来律儀に返事を書き続けている柚月さんの文通相手の一人で、写真を撮るのと旅行が趣味らしく、柚月さんの所にも時々風景写真を送って来る。

最近では徐々にファンレターが増えて来ている。
柚月さんは 『ファンレターを頂けるなんて、何だか恐れ多いですよね』 と照れながら一通一通に丁寧に返事を書いて送り返していて、一ファンから文通相手にかわっていく人達の中でもこの女性とは週に1度は手紙のやり取りを続けていた。

今時の 『メル友』 ではなく 『文通相手』 と嬉しそうに言う所がいかにも柚月さんらしくて可愛い、などとは思いつつも、その手紙を楽しみにしている姿を見る度になんとなく妬けるような気がするのも事実だった。


6階に着き、スーツのポケットからキーケースを取り出しながら廊下を右手に曲がって玄関の扉に向かう。
柚月さんは今頃お風呂も入り終わってのんびりとテレビでも見ているだろうか。
昨日絵を仕上げたばかりで明日明後日と週末の予定はないと言っていたし、私も久し振りに土日ともに休みだから、この週末は二人の時間を思う存分満喫しようと思いながら玄関の鍵をあけた。