居酒屋を出ると、思いのほか肌寒かった。地下鉄の駅まで同行する中込とふたり、ポケットに手を入れて歩いた。
 これ以上何と言っていいのかわからない。
 男をきれいだと思い、また会いたいと思うという事実を。
「要するに、ひと目ボレだろ」
 中込の言葉は唐突だった。桜田を男だと言っていないので、別段おかしくもないのだが。
 地下へ続く階段の手すりに中込がもたれ、瞠目する徹に向かって肩をすくめる。
「お前、顔、真っ赤だぜ。いつもの半分も飲んでねえのに」
 頬を触った。ポケットに入れて外気にさらされていない手でも、熱さがわかった。
「ま、少し冷ましてけ。じゃーな」
 中込が手を高くかかげて振った。軽い足どりで階段を下りていく。
「ひと目、ボレ」
 言葉にして、すぐに口に手をあてた。耳の中に心臓があるみたいだ。
 駅の出入り口から離れ、駐輪場の柵に尻を乗せた。
 桜田の店まで歩けば二十分ほどか。徹は大通り沿いに歩かず、脇道に入った。
 見覚えのあるしなやかな体躯が目の端を横切った。
「桜田さ……」
 鮮烈に焼きついたスリーピースが、さらに裏路地に入っていく。
 徹も同じ路地に入った。入ってすぐに、間口の狭いバーのような店がある。木製の扉も頭上で輝くランプも、相当年季が入っていそうだ。
 桜田は扉の取っ手を握るだけで、あけようとはしない。店名が書かれた、はめ込みの小窓を見つめている。
 店から男がひとり出てきた。桜田が入ると思ったのだろう、扉を手で押さえている。桜田は軽く会釈をして後ずさった。
 男は怪訝な顔をして扉から離れ、煙草を口にくわえた。すぐに扉がひらき、まだ高校生ぐらいにしか見えない少年が現れた。
 紫煙をくゆらせる男の左腕に、両腕をしっかと絡ませる。
 連れ立って暗い道に溶けていくふたりを、桜田は潤んだ目で見ていた。








 いい加減に起きなさい、という母の怒声で目が覚めた。枕もとに置いた携帯電話は午後の一時半を示している。
 徹は母に従い、台所から熱いうどんを持って自室に戻った。
 家族にとっては遅めの昼食、徹には朝兼昼となったうどんが腹にしみた。パソコンを立ち上げる。あっという間にたいらげたうどんの丼を、ローテーブルに置く。
「ええ……と」
 昨夜、桜田が入ろうとしたバーの店名を打ち込み、検索ボタンをクリックした。
 ヒット数はかなりあり、いくつか見てみたが無関係のところばかりだった。
(男がふたり、腕を組んで歩いていった)
 店名と店の大まかな所在地、そして「ゲイ」と打ち込んでみる。
 見事にヒットした。
 三十分ほどパソコンの前に座っていたが、電源ボタンで電源を切ってベッドに仰向けになった。
(そうか、そうなんだ)
 あのスリーピースは、きっと急いでクリーニングしたのだろう。靴も磨きあげられていた。徹が水をかけたあの朝も、昨夜も。
(ああいう店に、いい服を着ていく人種なんだ)
 バーを調べる際、徹はゲイに関するいくつかの言葉を知ることになった。
 ノンケ、ハッテン場、ウリ専。
 あの店は男を相手にする男が集まり、出会う場として歴史があることも知った。
 寝返りをうってテレビをつける。週末のサッカー中継が始まっていた。
『焼きそばとこのピラフは、うちのツートップなんだ』
 桜田の笑顔は人をくつろがせた。カウンター内で人懐こい笑顔を見せる桜田は、女性客の視線を集める。徹の視線も、もっていく。
 一緒の皿でピラフをつついたとき、徹はカロリーを摂取した以外の汗をかいた。
 目をとじる。
 昨夜の少年が、まぶたの裏に浮かぶ。ピンク色に染まった頬で無防備に笑った。
 桜田も、あんな顔をしたことがあるのか。
「……くっそ!」
 ベッドが金属的な音をたてるほどの勢いで跳ね起きた。
 真新しいTシャツと麻混のジャケット、黒のスリムジーンズをひっつかむ。
『これで貸し借りなしだよね』
 そうだ。同等だ。
 自室を出て、母に怒鳴られながら階段をかけ下りた。








 桜田の店の看板が暗くなった。桜田の叔父が店内に看板をしまう。
 数分後、ブルゾンを羽織った叔父が地下鉄の駅に続く道を歩いていった。
 徹は雑誌から顔を上げ、コンビニの時計を見た。夜の八時を回っている。
 店の斜向かいにあるコンビニを出た。胸に手を当ててずんずん歩く。全力で走ったときより激しい鼓動が気に食わない。
 表の灯りがすっかり消えた、準備中の札がかかる扉をあけた。
「すみません。きょうはもう……あ、きみ」
「また、きました」
 桜田は、形のいい鼻梁をぽりりとかいた。
「うーん。別の日にする、とか」
「話があるんです」
「……お腹減ってない? 空腹は話をややこしくさせるから。ショウガ焼きでいい?」
「う……はい」
 すすめられるまま、カウンター席に着いた。ショウガ焼きと聞いて唾がわくのが情けない。多めのタマネギとたっぷりの豚肉がフライパンの中で揺すられる。タレが足されて魅力的な香りが徹を包むころ、桜田さん、と言ってみた。
「桜田さん。最近、嫌なことありました?」
 桜田は笑い声をあげ、
「きみに水をかけられたことかな」と言った。
 桜田はずっと笑顔だ。
 実際の拘束時間はわからないが、家業を担っているのだ。立ち仕事でもあるのに疲れていないはずがない。それでも徹に食事をふるまおうとする。
 無性に言葉を投げつけたくなった。
「おれがここにきたら、迷惑ですか」
 コンロの火をとめた桜田が振り返る。
「きみ、大学生?」と、徹の顔を見ずに言う。
「はい」
「きみには未来があるんだね」
 椅子を蹴って立ち上がっていた。桜田は二十代半ばに見えるが、あきらめに似た言葉を吐くことはないだろう。未来はだれにでもある。
 未来のどこかに接点を作りたくて、ここにきたのだ。
「ノンケに構われンの、迷惑ってことかよ!」
 口をついて出た言葉を戻したいと思ったのは、これが初めてだった。
 桜田が口をひらく。顔に血の気がない。
「きみ……まさか」
 徹は目を走らせた。注文をとるときの伝票とボールペンを取ると、読める程度の文字で書きなぐった。
「おれが見えなくなったら、電話してください」
 伝票をカウンターに叩きつける。
「きみ! だめだよ、待って!」








 桜田の言葉の意味はすぐにわかった。
 徹が外に出たと同時に、突然の豪雨がこの一帯を襲った。
 話したいとしか思っていなかったので、雨雲の多さに気づかなかったらしい。
 桜田の店は歩道橋のある交差点に面している。徹の目と鼻の先にある信号は赤になったばかり。ここにいるか、意味もなく歩道橋に向かうしかない。
 数歩下がり、桜田の店の扉に背中を押しつけた。ビニール製のひさしは短くて役に立たないが、身の置きどころがない。
 携帯電話が鳴った。通話ボタンを押す。
「……村瀬くん?」
「え。おれの名前……」
「書いてあったよ。携帯の番号と一緒に」
 言葉もない。啖呵をきるときに、名前まで書いていたとは。
 徹は咳払いをして、ぶっきらぼうに言った。
「見えなくなったらって言ったでしょ」
 我ながら子どものようだと思う。桜田にも伝わったのか、小さな笑い声がした。
 刺も憂いもない、やわらかい響きだった。
「笑うんなら切りますよ」
「はは、ごめん。見えてないよ」
「えっ」
「見えてないんだ」
 静かに振り向くと、桜田の背中が見えた。扉を挟んで背中を向けている。
 細い体だ。あの体をだれかのために着飾り、だれかのために笑った。
 バーの前で立ちつくしていた桜田は、泣いているかと思うほどだった。
 あんな、消えてしまいそうな桜田を見るなら────。
 だれのためでもいい。笑ってバーに入る桜田でいてほしかった。
「昨夜、バーのそばで桜田さんを見ました。あのバーがどんな店か、調べました」
 電話の向こうは息をする音しかしない。徹は桜田に背を向けて、扉にもたれた。
「それでもここにきたのが、おれの気持ちです」
「なんで……僕?」
「ひと目惚れです」
 背中の扉に重みがかかった。店の扉越しに、桜田の体温を感じる。
 ガラスの扉一枚隔てて、ふたりは背中合わせになっていた。
「店に入りなよ」
「ガラス越しでも体温って伝わるんですね」
「徹くん、話聞いてる?」
「おれ、フルネーム書きましたか」
「書いた」
 ふたたび笑い声が聞こえた。
「きみと初めて会った日の前日、あの店で知り合った奴の誕生日だった」
 食事を置くときと同じ、穏やかな声が続く。
「少し前からぎくしゃくしてて。でも、会いにいった。約束してたんだけど、あいつ……部屋にいなくて。ひと晩待ったけど戻ってこなかった」
「ひどいですね」
「でも、行ってよかった」
 背中のあたたかさが消えた。
 店内を見る。桜田が扉の向こうで微笑んでいた。儀礼的な微笑みではない。
 肉感的な唇がひらき、白い歯がのぞく。
「きみと出会えたから」
 そう言った桜田の頬はピンク色だった。
 男が集うバーの前で笑った少年と同じだった。
 徹は電話を切り、扉をあけた。


<  了  >







会員制BLサークル・黒猫まんぼ様の会報掲載作です。少し加筆修正しました。
会報のテーマは『水も滴るイイ男』でした。桜田がタチかネコかリバ好きなのか不明なのですが、徹は攻める気満々のようです。




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