見えなくなったら

「ウソだろ」
 徹(とおる)は自宅前に突っ立ったままつぶやいた。バケツがからりと落ちる。
「……それは僕の言うことかな、と」
 徹の真正面に立つ男が返した。
 柔和な表情を崩さない顔から、スリーピーススーツと先の細い靴でキメた足もとまで、水のかかっていないところがない。
 半分寝ながら鉢植えに水をやっていた頭が覚醒する。
 母に叩き起こされた徹は、バケツの水の大半を盛大にぶちまけたのだ。
 被害者の前で腰を直角に折り、ひっくり返った声で謝罪する。
「ッす! すいませんでしたっ!」
 男は自分のハンカチで白い顔を拭いている。
「ちょっ、ちょっと待っててください!」
 背後の引き戸をあけて中に入った。洗面所から洗濯済みのタオルをつかんで外に出る。濡れて小柄な人影が角を曲がろうとしていた。
「待って! すみません、待ってッ!」
 わめきながら走る徹に、近所の犬が吠えかかる。
 二軒隣の角を曲がる。勢いもそのままの徹は、あやうく男の背中に激突するところだった。
 男がのそりと振り返る。
 息をのんだ。
 まつ毛やあご、少し長めの髪や指先などから、水の玉がきらめいて落ちていく。
 どれほどの量の水を浴びせてしまったのか。気にすべきところはそこなのだが。

(めっちゃ、きれい)

 徹が握りしめていたタオルを男が指さした。
「それ、使っていい?」
「あ? ああっ! どっ、どうぞ」
 タオルを受け取った男は、髪から拭き始めた。
 栗色の髪は朝日を透かして、ひたいに淡い影を映す。男の顔は青白く、どこか生気がない。顔全体の輪郭も、弓なりの眉も、すっと通った鼻筋も、少し厚い唇も、すべてが中性的だ。
 細身の体は水を拭くたびにしなやかに動いた。通りを行く人、特に女性が見ていく。
「ありがと。これでもう乾くと思う」
 儀礼的な微笑みをたたえた男からタオルが返される。
「本当にごめんなさい! クリーニング代、出します。おれン家きてください」
 徹が九十度礼の格好で言うと、男はいいよと言った。背を向けて歩こうとする。
「だめですよ! そんな、ちゃんとした三ツ揃え。おれが叱られます!」
「いいってば。わざとじゃないんだし」
 男が少しよろけた。反射的に徹が支える。
「あの、体、どっか悪いんですか」
「徹夜しただけ」
 かすかに酒の臭いがした。顔色が悪いのは、悪酔いでもしたためだろうか。
「顔色よくないですよ。うちに寄ってください」
 百八十センチの徹を、男が見上げる。
 疲れた、と、整った顔に書いてある気がした。
「クリーニングより、気が向いたら食べにきて」
 男はスラックスのポケットをまさぐり、紙マッチを取り出した。
「僕の勤め先。五丁目の、国道沿いにあるから」
 マッチの紙蓋には喫茶店のような店名と、電話番号が印刷されている。だが、国道沿いではあまりに漠然としている。
「すいません、これどこ……」
 顔を上げると、男は大通りの信号を渡りきるところだった。
(めっちゃ、きれいだった)
 徹はタオルと紙マッチを大切に抱いた。








 翌日の午後。平日だというのにデパートの地下は人、人、人だった。
 地下鉄の車内も混んでいた。買ったばかりのプリンが入った紙袋を人に当たらないように提げる。駅の階段でプリンの袋を見る。きのうの男が甘党だという確証はないが、他に思いつかなかった。
 気に入るだろうか、などと考えていたら、紙マッチの店が見つかった。妹から聞いたとおり、コンビニと歩道橋がある交差点の角にある。人の出入りがまばらにあった。
 マッチに印刷されていた電話番号には、何となくかけたくなかった。そこまでして来なくていいと言われる気がしたからだ。面倒な奴だと思われるのも嫌だった。
 このあたりの地理に通じている妹に感謝しつつ、店の扉をあけた。
「いらっしゃい……あ、きてくれたんだ」
 どうも、と礼をした徹は、男にうながされるままカウンター席に座った。
「すみません、忙しかったですか?」
 ランチタイムは外したつもりだったが、店内は空席が少ない。
「ピークはすぎたから大丈夫。何食べたい? お昼、まだだよね?」
「お任せします。おれ、好き嫌いないです」
「じゃ、焼きそばでいい?」
「はい!」
 徹を見て、キッチンの奥にいた中年男が微笑んだ。水とおしぼりを持ってきた女の子も笑っている。
 女の子が離れてから、プリンの紙袋をカウンターの上段に置いた。
「これ、お口に合うか、わかんないですけど」
「ええ? いいのに。それ、うちの女の子たちも好きだから、皆でいただくね。ありがと」
「うちって」
「ここ、僕の家なんだ」
 男は大きなフライパンを軽々と振った。きのう朝日を浴びて輝いていた髪は、紺のバンダナですっきりとまとめられている。コンロに向かってからはほとんどこちらを見なかったのに、どの店の何の菓子かわかったらしい。
 溶けた脂と豚肉、野菜や麺を炒める香ばしい香りが、カウンター内のキッチンからただよう。中年男が顔を出した奥のキッチンには寸胴鍋が並び、野菜を切り込む音が絶え間なく聞こえてきた。
 紺のバンダナをした男の調理は手早く、熱々の焼きそばが徹の前に置かれた。
「召しあがれ。単品より安くしとくよ」
 目玉焼きが乗った焼きそばは、どう見ても大盛りだった。
「ツヨシ。昼、入れ」
 中年男が言った。色違いのバンダナをしている。くぼんだ目が優しそうだ。
「僕の叔父。父はサラリーマンだから、叔父がずっと店のことやってくれてる」
 見た目と合わない名前のツヨシが、徹の隣の席に座る。そこはカウンターの端で、椅子も他のものより古ぼけていた。従業員の指定席なのかもしれない。
「どう? 足りた?」
 徹の皿は、紅ショウガを残すだけになっていた。
「ごっ、ごちそうさまでした。うまかったです」
「よかった」
 と言いつつ、ツヨシが徹にカレースプーンを渡す。大きめの皿に盛ったエビピラフを、ふたりでつつこうということらしい。
「これもうまっ!」徹は言って、背を丸めた。
「おれと一緒に食っ……食べたら、足りなくなりますよ。えっと……ツヨシ、さん」
「僕は桜田毅(さくらだつよし)。たくさん食べて。炭水化物攻めで申し訳ないけど、焼きそばとこのピラフは、うちのツートップなんだ」
 焼きそばの皿は下げられ、アイスティーが運ばれた。結局ピラフも三分の二以上を徹が食べたことになる。
「桜田さん、小食なんですか」
「そうでもないんだけど、ちょっとね」
 少し厚くて……化粧品の宣伝で見る女優に似た唇に、ホットミルクティーのカップが運ばれる。骨ばった手の甲や指の関節に、あかぎれの痕が多く残る。
 徹の視線に気づいたのか、桜田の頬が染まった。
「手、みっともないよね」
「いえ」
 ストレートのアイスティーを吸い込んだ。濃い味で香りも強い。わずかな苦味と冷たさが、頭も体も火照った徹にはちょうどよかった。
「よくここだってわかったね。このへん詳しいの?」
「妹が、ここからバス停ひとつ離れた高校、行ってまして。ここ、昼どき混むって有名らしいです。妹も学校帰りに寄るそうです」
「K女高? 優秀だね。うちも女性受けする商売すればいいんだけどね。しっかり食べさせたいっていうのが先代からのポリシーで。小盛りや半ライス、やらないんだ。スイーツ類も種類が少ないし」
 メニューを見ると桜田の言うとおりだった。ランチが充実している。
 ここは地方都市だが、中心街から遠くはない。一食コーヒー付六百円台というのも珍しかった。
 ふと、背後から視線を感じた。四人組のOLふうの女性たちがこちらを見ている。
「そういえば、桜田さん目当てで入ったら、雰囲気いいし、カフェオレも濃くてうまいって言ってました。うちの妹」
「ええ? はは、ありがとうって言っといて」
 桜田が食器類をひとまとめにした。立ち上がり、腰に巻いてあるカフェエプロンを直しながらカウンターの中に入っていく。
「やっぱ、忙しかったですか」
 食器を洗おうとした桜田が手をとめる。二度、三度とまばたきをするまつ毛が、きのうの姿と重なった。水に濡れて、きらめいていた……。
「これで貸し借りなしだよね」
 カウンターの向こうから抑揚のない声がした。口角こそ上がっているが、その笑みは硬い。まぶたの上にある影も、きのうより濃い気がする。
「またきます」
 気づいたらそう言っていた。レジに向かう。
 フリーターらしき女性店員は、間違えることなく割り引いた価格で精算をした。








 雑居ビルの地下は雑多な音がしていた。
 ジョッキがぶつかる音、皿が重なる音、有線放送の音楽、酔った自分たちの声。
 忙しく働く従業員を見る。居酒屋の店名がプリントされたTシャツと、揃いのバンダナとデニムの前掛け。ズボンは黒で統一されていた。威勢のいい声がこだまする。
「どした、村瀬。ああはなりたくないってか」
 いつも教室で隣に座る中込(なかごめ)が、徹のジョッキにビールをついだ。揚げ物の盛り合わせの皿をたぐり寄せる。
「逆。おれ、あんなふうに動けねえ」
「ああ? 何それ」
「バイト、イベント搬送しかしたことねえし。接客業こなせる奴って、マジすげえと思う」
「体力自慢の村瀬が何いってんだか」
 徹は体力しか取り柄がない。短く刈り込んだ髪の手入れは適当だし、勉強はもっと適当だ。片手腕立てと腹筋とスクワットが日課だった。
 鼻を鳴らして唐揚げをかじる。肉はパサつき、油も水分も衣が独占していた。
「たいしてうまく、ねえな」
「幾らだと思ってんだよ。味とか求めんなって」
(飲食店がそんなんでいいのか)
 徹がビールのピッチャーを持とうとしたとき、食器が割れる音がした。派手な音だった。中込と共に向かいの座敷を見る。
 コンクリートに五色石が埋められた床に、枝豆と、真っ二つになった小皿が落ちていた。アルバイトの女の子が平謝りしている。
「だーかーらァ! エダマメ二回も持ってきてどーすんの! 頼んだのはギョーザ! もーう、カンベンしてよお!」
 二十代後半か、会社員ふうの男が大きな声を出した。申し訳ありませんを繰り返す女の子が、今にも泣き出しそうだ。
「なりたくないのは、あれだな。村瀬?」
 徹は座敷の下にある靴に足を入れようとしていた。酔っているためにもたつき、中込に靴を取り上げられた。
「何やってんだよお前。仲裁する気か?」
「そうだよ!」
「やめとけ。おさまるようになってんだって」
 怒鳴った会社員は仲間になだめられている。店長と思わしき男が、他の仲間に割引券をうやうやしく手渡していた。
 アルバイト店員は店の奥に連れていかれ、枝豆も皿もきれいに片付けられた。
「お前ちょっとおかしいぞ。何かあったか」
 徹が靴をはこうとしたことで集まっていた同級生たちも、元どおり席に戻った。徹と同じ私立大学に通う仲間だ。全員、この春に入学したばかりである。
 徹と中込は最奥の席に陣取った。
「焼きそばとピラフの、すっげーうまい店があって、めっちゃきれいな人がいる」
 中込がうなずいた。
「その人、きびきびしてんだ。その人だけじゃない。小さな喫茶店なんだけど。とにかくうまくて、腹いっぱいになる。で、安い」
「へえ。おれも連れてけよ」
「おれ、あの人と同じ皿で、ピラフ食った」
「おーい。会話、成り立ってねえし」
 中込が吹き出しながら言う。店員が飲み放題終了を告げにきた。