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 金曜の朝は体力を奪うような暑さだった。
 社の主力商品はバーゲンセール用の服である。中国や東南アジアで縫製されたものが岐阜のプレス工場に届き、アイロン仕上げされた状態で店頭に並ぶ。
 流行のデザインを真似た服が相場の六、七割、大きなセール時には五割ほどで買えるとあり、この景気でも受注は常にあった。
 明日から百貨店を会場にしたセールがある。出せば売れる時代ではなくなったが、薄利多売で切り抜けるしかない。
 いつものカフェに立ち寄った。カフェは会社から細い通りを一本隔てたところにあるため、この時間に利用することも多い。朝の八時前では牧野少年も姿を見せないだろう。
 店は今朝も混んでいた。昨日座った席に座ると、東の左側から女性の声がした。
「ここ空いてますか」
「いえ、ここは……」
 迷わず出た自分の言葉に、東は耳を疑った。
 左隣は空席だ。常に空いていてほしいと望んだ。望んだのは他のだれでもない、東だ。
「あの」
「すみません。空いてます」
 東はぎくしゃくと頭を下げ、席を離れた。うだるような暑さが思考力も奪うのだろうか。
 つきまとわれて辟易していたはずだ。それなのに空席ではないと言いそうになった。用意されていた答えであるかのように。
(あの子が座ることが……当たり前になっている)
 カフェの入り口を出たところで携帯電話が鳴った。斉藤の携帯電話からだった。
「東! 今どこだ!」
「どこって、いつものカフェだよ」
「すぐ来い! 明日のセール分の一部、届いてないって岐阜から電話だ!」




 社内は上を下への大騒ぎだった。課長のデスクの前で米原が小さくなっている。
「帰るときにファックス、見なかったんです。まだ戻られていない方もおみえでしたので……大丈夫だろう、って。申し訳ありません」
 米原が昨夜帰宅したのは東が事務所を出てからとのことだった。女子社員には帰る前も細々とした支度がある。米原は化粧室から更衣室に直行したようだ。
 泣き出す一歩手前の米原に、課長が着席するよう促した。入れ替わりで東が課長の前に立つ。苦い顔の課長から、昨日最後に受信したファックス用紙を渡された。
「織機の調子が悪くて織り傷が多かったとのことだ。幸い一色分だけだが、織り直したため今日の夕方にしか岐阜に到着しない」
 課長が言ったとおりの内容がファックス用紙に書かれていた。東は謝罪して自分のデスクに戻る。青い顔の米原の横で斉藤が「大丈夫だよ、穴は空かない」と言っている。東も目で同じことを米原に伝え、受話器を取った。岐阜の工場にかける。
 工場長の怒声が東の声を打ち消した。
「困るよー! こっちはねえ、主婦パートさんで回ってんだよ。あの半コート、一色二百着でしょお。夕方届いて検針してスチームかけて、上がるの日づけ変わるころだよ。おばちゃん連中引きとめとく、こっちの身にもなってよお!」
 これ以上謝り尽くせないくらいに謝って受話器を置いた。納入先である百貨店をはじめ、次々に連絡をとっていく。
 東が担当した半コートは今回のセールを支える商品のひとつだ。地味だが着る人を選ばず、夏の終わりから次の春先まで安定して売れる定番商品といえる。
 生地の織りから海外で扱うようになりずいぶん経つが、織り傷には悩まされていた。怪我の傷を縫って盛り上がったような、あるいは、糸が抜けて透けてしまったような痕が生地の表面を走る。それが織り傷だ。手作業で裁断しても隠しきれないことがある。
 セール広告も商品も差し替えはできない。東は社用車の鍵を手に、飛び出した。




 件のコート以外の仕事を消化し、正午過ぎに岐阜に着いた。仕上がった商品をバンに詰め込んだのが午後十時。名古屋市内の百貨店に納入が完了したのは、日づけが変わる三十分前だった。
「あー終わった。久々の工場は暑いわ。コンビニで冷たいもん買ってこうぜ」
 社用車であるバンの脇で、斉藤が大きく伸びをした。
「お前のおかげで予定より早く終わった。ありがとう。借りができたな」
「いいって。それよりビール買うべ。発泡酒はだめだぞ」
 東と斉藤はそれぞれ別のバンに乗った。自分の仕事を猛スピードで切り上げた斉藤は、夕方前から岐阜に来てくれたのだ。荷ほどきから値札付けまで手伝いながら、謝罪一辺倒の東に代わって場を和らげてくれた。
 米原や後に帰社した社員がファックスを見たとしても、中国からの出荷時刻を変えるのは不可能だ。織り傷が隠せないとわかった時点で本社の指示を仰ぐという基本中の基本も、おおらかな大陸の風にあたると守られなくなることがある。
 定番商品だから連絡を密にしなかった。気が緩んでいたのは中国にいる日本人従業員も東も同じだ。東さえ入念に連絡をとっていれば、仲間の時間を奪うことも米原を泣きそうな顔にさせることもなかった。
 前を走る斉藤の車が路肩に寄った。アルコールを扱うコンビニはもう少し先のはずだが、東も同じように寄せる。
 窓を開けようとしたら斉藤がしきりに左側を指差しているのが見えた。
 うまいコーヒーを出す、いつものカフェ。
 その前に牧野少年がいた。膝を抱え、ひたいを膝につけて座っている。

 『何時でも、待ってます』

 ヘッドライトに気づいたのだろう。牧野少年がゆっくりとこちらを向いた。
 見開いて輝く目が、この半年間、東を冗談で追っていたのではないと告げていた。あどけないくせに、他の選択肢をすべて捨てたような顔だった。
 引きずり出されるようにして車から降りた。ガードレールの切れ目に手をかけたとき、斉藤がバンの窓を下ろして言った。
「先に戻ってる。ビール、買ってこいよ」
 車が発進する音に押されて歩道に入った。一歩、二歩と牧野少年に近づいていく。
 言葉も、プレゼントも、覚悟もない。
 何ひとつ用意していない東の足が、牧野少年の前でとまった。
「こんな時間まで待つなんて。家には電話したのか。いつからいたんだ」
「五時、から」
 立ち上がった牧野少年の手が歩道についた。膝の力が抜けたようだ。
「文彦!」
 気づいたら文彦と呼んでいた。差し出した東の腕が文彦を支える。
 驚きの表情をみせる文彦の目に、光るものがたまった。
「ふみ……」
 細い腕が東の胴に巻きついた。伝わる鼓動が異様に速い。伝染しそうな速さだった。
「……俺のどこがいいんだ。きみの誕生日も、待つという言葉も忘れてたんだぞ」
「でも、来てくれました」
 文彦を見つけたのは斉藤だ。斉藤と共にこの通りを通らなければ、灯りの消えたカフェの前にいる文彦に気づくことはなかった。
 東は必死に探した。あきらめさせる言葉を。
「誕生日プレゼントも買ってない。気の利かない、つまらん男だ。今日も仕事でミスをした。きみの前にはどこにでも行ける道がある。俺は、その道に転がる石になりたくない」
 文彦が東を見上げた。小さな顔を横に振る。
「俺を障害物にしないでほしい」
 東の二の腕ががっしりとつかまれ、唇に知っている感触がよみがえった。
 これを最後に交わしたのはいつだろう。
 東に恋人がいたのは一年以上前だ。相手はもちろん女性で、年齢も二十代後半だった。
 異性の唇しか知らないのに、どういうわけかまぶたが下りた。
 中心街から離れてはいるがここはビジネス街だ。居酒屋もある。たまに通る人の足音が頬の温度を上げるが、文彦を突き飛ばそうなどとは思わなかった。
 押し当てられただけの唇は、半年分の感情を雄弁に伝えた。音もなく熱が離れる。
「東さんは障害物なんかじゃありません」文彦がリュックを背負って背を向ける。
「そんなふうに思わせたのは、ぼくのせいです。もうここには来ません。東さんの迷惑になるようなことは、これが最後です」
 言葉の終わりは明らかに涙声だった。文彦が駆け出そうとする。
 逃げる手首が東の手の中にあった。振り返る文彦を引き寄せる。体に合わないリュックごと、強く抱きしめた。
「東さん……! 意地悪しないでください」
「意地が悪いのは、きみも同じだ」
 文彦の頭を抱いた。びくつく肩が、汗の匂いが残る髪が、理屈抜きで可愛かった。
「俺は彼女いない歴一年だ。さっきので色々思い出しちまった」
 腕の中にある頭が考え込むように傾いた。思わず吹き出しそうになる。東は斜に構えず笑い、ささやいた。
「十八歳になれば、色々しても罪にならない」
 ドンっと胸を押された。文彦の眉がつり上がっている。
「何ですか色々って。やらしいっ」
「おっさんは、やらしいんだ」
 文彦の顔を両手で包む。今度はびくつかない。
「誕生日おめでとう。これからは、待ち合わせて相席しよう」
 小さくうなずいたあとに幼い目がとじる。東は身をかがめた。離れたときと同じ、音をたてずに唇を重ねる。
 (本当に────色々思い出しそうだ)
 火照ったふたりの頬を、夏の夜風が撫でていった。

<  了  >









会員制BLサークル・黒猫まんぼ様の会報掲載作です。少し修正しました。会報のテーマは『いじわる』でした。何時間も待つ文彦、冴えない東ではありますが、ナゼかまた書きたくなるふたりなのでした。


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