東慎太郎(あずましんたろう)は、カフェの店内を入念にうかがっていた。
「今日こそいないな」
入り口の扉をわずかに開けてつぶやき、左右を確認して店内に入る。
アイスコーヒーを手に一周したが、いつものカウンター席しか空いていなかった。ここは外から見えるので危険なのだが仕方がない。
八月下旬で残暑も厳しい。夕刻の一服に涼を求める人は少なくない。半年前に開店したこの店はコーヒーの味に定評がある。フランチャイズ店ではなく、落ち着いた雰囲気も嫌いではなかった。
窓に面した席で深い味わいを楽しんでいると、左後ろに恐れていた気配を感じた。
東は窓の外を見たまま鞄を左のスツールに置く。
「あーずーまーさん。お疲れさまです」
「……そこはツレが来る」
少年がスツールに置いたばかりの鞄を見た。にっこりと笑う。
「ウソついてもだめですよ。ひとりで入るとこ、見てましたもん」
ストーカーかよ。こいつは。
東は自分をつけ狙う少年をしげしげと見た。
丸い顔と下がった眉に愛嬌がある。背が低くて線の細い、あどけなさが残る子どもだ。
この少年が強引に相席するのだと言っても、返ってくるのは「別にいいじゃないか」「たかられるわけじゃないんだろ」「やだあ、カワイイ。気があるのかなその子、東さんに」だった。
同僚が覗きにきて冷やかされたこともあり、一時はこの店に通うことをやめた。しかし結局ここのコーヒーを求めてしまう。子どものイタズラのために我慢することもない。
(何が楽しいのか知らんが、勝手にしろ)
しぶしぶ鞄を床に置いた。空いたスツールに少年が素早く座る。
「勉強はいいのか。追い込みの夏じゃないのか」
「大丈夫です。これでも国立射程圏内です」
これは事実だろう。何度目かの相席のときに、東は少年の名を訊ねた。
牧野文彦(まきのふみひこ)という少年の名を、この近くで見たことがある。
カフェから信号ひとつ離れたところに大きな交差点があり、角地に学習塾を兼ねた予備校があった。そこでは成績上位者の氏名を紙に書いて貼り出す。ガラス張りの一階部分に外からも見えるように貼ってあるのだ。個人情報うんぬんより、競争意識を刺激することを重視しているのかもしれない。
墨黒々と書かれた『牧野文彦』は、見るたびに上段の位置にあった。
「時は金なり。こんなおっさんを構うな」
東は来年三十二歳になる。酒は思うように減らせないが禁煙はした。頭も体も、怖いもの知らずの昔とは違う。これからどこへでも飛び立てる少年に構われる理由がない。
「東さん、いつもコーヒーですね」
はぐらかした牧野少年が笑った。目尻が眉と平行に下がり、口角は見事に上がる。
これだ。
この笑顔を見ると、強いことが言えなくなる。
ミルクかカフェオレの牧野少年は今日もアイスミルクだった。ガムシロップはふたつだ。
輝く瞳で東のアイスコーヒーを見つめる顔は、どこか少女を思わせた。わがままで好奇心旺盛でおてんばな、姪っ子のような感じだ。
東は牧野少年の前に冷えたコーヒーを置いた。
「飲んでみるか。何も入れてないから、苦いぞ」
カラン、と氷の音がした。
牧野少年が神妙な顔で東のコーヒーを飲んでいる。
周りから音が消えた。幼い横顔に目が吸い寄せられる。
伏せた一重まぶたと……荒れたところのない唇と、丸い頬が────可愛い。
(可愛い……?)
牧野少年が顔を上げて東を見る。子どもの頬が赤くなっていた。
「苦いけど、おいしいです」
「そ、そっか」
咳払いをして、これが大人の余裕だと斜に構えて笑ってみせた。
「少年は背が低いな。高三だろ、何センチだ?」
恥じらう少女のようだった牧野少年が、ふくれっ面になった。
「百六十センチ台です。トシだって、もうすぐ十八ですっ」
「もうすぐって、誕生日近いのか」
「明日です」
唇を尖らせる顔は十四、五歳くらいにしか見えない。やけに喉が渇く。
アイスコーヒーを取り返して飲み干した。焙煎がきいているはずなのだが薄く感じる。
「百六十センチも、百六十センチ台だよな」
子ども相手に大人げないことを言ってしまい、東は心の中で天を仰いだ。
「今日の東さん、意地が悪いです」
牧野少年がスツールから下りた。ミルクを乗せたトレーを持ち、すたすた歩いていく。甘いミルクは半分以上も残っていた。
「牛乳飲まないと、背が伸びないぞ」
振り返った牧野少年が鼻にしわを寄せる。入り口のベルを派手に鳴らして、一度はカフェから出ていった。だが、すぐに赤い顔で戻ってくる。
身構える東の前で牧野少年が口を開いた。
「明日お仕事終わったら、ここに来てください」
「終わったらって、明日は金曜だ。何時になるか」
「何時でも、待ってます」
牧野少年は勢いよく頭を下げ、先ほどと同じようにベルを鳴らした。今度はまっすぐ塾に向かって駆けていく。背負っているリュックが新品のランドセル並みに大きく見えた。
(明日……?)東が席を立つ。
(ああ、ストーカーくんの誕生日か)
トレーの返却口に向かった東は、交差点を見やってため息をついた。
「よお、東! 今日も小悪魔につかまってたな」
帰社と同時に斉藤の声がした。東はパソコンの電源を入れ、ぶっきらぼうに答えた。
「見てたのか」
座っている椅子を滑らせながら斉藤が大学ノートをめくる。ファックスの通信記録ノートで終業時には全員が目を通すことになっていた。斉藤の椅子が東の椅子に当たる。
「お前ら窓際の席にいたろ。丸見えだ」
「中に入ってツレのふりしてくれりゃいいものを。ストーキングされてる同僚のために」
「睦まじいふたりの邪魔を? ご冗談」
「ばかいってろ。俺は静かに休憩したいだけだ。ゆっくりコーヒーが飲みたいしだな」
「ふーん。その割には楽しそうに見えたけどなあ」
にやついた斉藤からノートを手渡される。斉藤の下にサインをし、給湯室に呼びかけた。
「ヨネちゃん、ファックスこれで全部?」
事務の米原(よねはら)が「そうでーす」と答える。今春に短大を出たばかりの娘だ。
「ヨネちゃんはしっかりした子だぞ。間違いなんかないって」
斉藤がムッとしてボールペンをノートの上に放る。東の頬がゆるんだ。
「はいはい。俺はもう上がりだけど、お前は?」
「岐阜さんこっちに来てるから、急きょ飲み会。先に行くわ。いつもんとこ。お前も来いよ」
了解の意味で東は片手を振った。
ここは一応アパレルメーカーと呼べるところだ。地元ではある程度名が知られている。隣接する岐阜市にプレス仕上げの工場を構え、安価な婦人服を展開していた。岐阜さんとは岐阜の工場長のことだった。
斉藤のボールペンを転がした。床に落ちる寸前で受け止める。
懸命に勉強しても地元の私大にしか合格せず、靴底がなくなるかと思うほど就職活動をしても、ここにしか採用されなかった。
「本当に……何が楽しいんだ、あの子は」
この程度の男を追って何になる。
関係先に電話をした。メールをチェックしてパソコンの電源を切る。ノートもファックスの横に戻し、帰社していない社員のデスク周りだけを残して蛍光灯を切る。
ファックスを受信する音が鳴り響いたのは、東が社屋を後にしてからであった。