Cufflinks

第一話・焔 第五章・3


 カーラジオのボリュームが絞られた。
「きみは他人のこととなると張り切るんだね」
 芝居がバレたかと冷や汗をかく。ペットボトルの水をぶちまけるなんて、わざとらしすぎたか。
 カーエアコンの冷たい風が汗を奪っていく。稲見がルームミラーを通して困ったように笑った。
「結果的にきみを連れていってよかったのかもね」
「え……?」
 社用車が減速する。赤信号に従って停止した。
「想像がつくと思うけれど、社はいずれ矢田くんとの契約を終える。彼もわかっているようで……前は事故以外の話には乗ってくれたんだけど、今回は目も合わせなくてね。矢田くんがおかげさまと言ったの、初めてだったんだよ」
 どうやら稲見は春樹の真意を見抜いたのではなく、頑なだった矢田の、わずかな軟化が嬉しいようだ。
 しかし笑ったのもつかの間、カーラジオを触りながら淡々と言った。
「でもね、春樹くん。接待してくれる子は皆、事情を抱えている。深入りはよくないよ」
「深入りする気はありません」
「それならいいけどね」
 マシンガンみたいな小言がないからといって、気を抜かないほうがいい。稲見を働かせるのも申し訳なかった。
「稲見さん、お仕事あるんですよね。渋滞になる前に降ります」
「送迎なら夕方からだよ。きみを自宅まで送る。高校生である以上、節度のある生活をしてもらわないと」
 信号が青になっても徐行運転が続いた。
 東京という街は生きているのか死んでいるのか、たまにわからなくなる。
 稲見がステアリングを指で叩く。言いにくいことがあるときの稲見の癖だ。
 案の定、淡々とはいえない稲見の声がした。
「塔崎様へのお返事が控えている。羽目を外さないようにね」
「……はい」
「イエスがベストの選択だ。おかしな考えはためにならないよ」
 ラジオが調子のいい曲を流す。明るい歌声が、春樹の消え入りそうな返事を隠した。








 西の空が赤い。学習机の時計は七時を回ったところだ。宿題のテキストを閉じて伸びをする。
 宿題というものに対して、春樹は至極従順だった。長い休みの宿題もコンスタントにこなす。始業式間近に半泣きでやっつけたりしない。勉強方法がわからない春樹にとって、宿題は指標であったからだ。
 やるべきことを最初から示してくれるうえ、学校は宿題をした事実を評価する。溜め込みさえしなければ、机に向かう時間も少なくて済んだ。
 参考書の陰にしていた大学ノートを取った。表紙の『高岡』を見つめる。
 公式を丸写しにする勉強を否定したのは高岡だけだった。
 血を分けた父も、援助の手を差しのべる塔崎も、春樹が使う教材やノートを見ようとはしない。
 現役高校生という売り文句が欲しい社に対し、高岡は勉学がもたらす効果を求める。学習塾のパンフレットや学校の小テストにまで目を通し、自分が中学生のころに使っていたノートを持ってくる。
 不得手なものを避ければ逃げ癖がつくとばかりに、文字どおり奔走しているのだ。
 カラスの鳴き声がした。都会が似合う黒い鳥が向かいのビルの屋上にとまり、もう一声鳴いて飛び立つ。
 少し遅れて小鳥の群れが旋回を始めたころ、机の天板が振動した。
 携帯電話の待受け画面に『T』を見た春樹は、意思も何もなく通話ボタンを押した。
「昨日電話をしたようだな。何か用か」
「あ、あれは」
 傀儡という立場にあって無事かと思ったなどと、言えるわけがない。
 電話機の向こうからトランペットの音色が聞こえる。風に運ばれているようだ。高岡は戸外にいるのだろうか。
「用があったのではないのか」
 高岡の声が不機嫌な色を帯びた。この調教師は無駄な沈黙を嫌う。
「間違えたんです。履歴の整理をしてて、間違えて発信しました。ごめんなさい」
 定番の「そうか」が聞こえない。練習中のような、途切れ途切れのトランペットが流れていく。
「あの、ほんとに間違えただけで」
「わかった。用がないなら切る」
 頭で考えるより先に、口が危険な男を引きとめた。
「待って! 待ってください!」
 自分でも気づかないまま、春樹の目は色あせた大学ノートに吸い寄せられていた。
「家政婦だった人から、お礼をお伝えするよう頼まれていました」
 電話機から聞きなれた金属音がする。煙草に火をつけたようだ。
 風を切る、鮮烈な高音が聞こえた。
 練習の甲斐があったのか、ピタリとはまったトランペットがバラードを奏でる。
「僕からもちゃんと言いたくて……ありがとうございます」
 最後の一節が終わる。風の音がしなくなり、少し低い声がはっきりと聞こえた。
「礼を言われるほどのことではない」
 いつもどおりそっけなく電話が切られる。
 その夜は深く眠るまで、高岡の声とトランペットの余韻が残った。


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